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体操の歴史(その6)

第29回 アトランタ五輪女子、の巻

 やはり一番印象に残る選手が、この女子個人総合を制したウクライナのポドコパエワです。
 脚力抜群。しかしそれだけではない。とにかく基本が恐ろしいくらい正確にできてる。ルーマニアの伝統ともロシアの優雅さとも、中国の曲芸とも表現できない、なぜか団体優勝した(失礼(_ _))アメリカの個性やアピール度だけで表現できない『体操の原点』を見直してみたくなるような演技である。
 けして顔も美人で整っているとは言えず、むしろ愛敬のある顔です。スタイルも、アピール度があるわけでもないけど、とにかく決めるべきところは決めるし、非常に難しい技を楽にこなしてしまう。そして、何と言っても100回することを100回同じだけ正確にするのはすばらしい。
 通受けする選手なんでしょうか。モセアヌやシャノン・ミラー(今回は彼女、本当にきれいだったし最高だったけど)と『USA』の大合唱の中で演技するのはつらかったと、あるルーマニアの選手が言っていたなかで、落ち着いていて基本姿勢が本当にきれいで、すばらしい選手だったと思います。床のタンブリングの凄さは絶賛ものです。あれだけ飛べる選手は男子でもいません。
 
 しかし、はっきり言って、あの体操会場のUSAコールは好きでなかった。モセアヌもかわいいけど、なんか今年は、10代後半から20にかけての比較的年齢層が高い(といっても、まだまだだけど(^^;)昔みたいに14とか15ばかりでない)胸も適度にふくらんでる、きちんと思春期を終えた女性らしい演技者が正確な演技をこなしてたのが、私はうれしいです。
 14、15でバルセロナに出た選手。4年間よく残って18、19、20になりしかも上位に残る。息が長い選手が多く、それがうれしかった。バルセロナに比べるとけっこうみんな女らしい格好になって、しかも16から20くらいに年齢層も上がってきたし、なんかなつかしかったです。まだ頑張ってくれてた、というのが感想です。
 もとEUNのガリエワとかコチェトコワとかチュソビチナやボギンスカヤとか。中国のキョウ・アとか。
 特にガリエワを見てうれしかったのは、ガリエワはバルセロナ五輪で個人総合に出る権利(国内団体自由プラス規定の持ち点3位)をもっていながら『ケガをした』という、本当かどうか解らない理由で、結局個人総合に出る権利をEUN内で4位だったグツーに譲って本人は観客席で見てたのです。が、これは本当ではないのでないか、ガリエワはケガはしてなかった。しかしグツーを出させたい旧ソ連のために、ガリエワがケガをしてるといわせグツーに権利を譲った・・・とすら言われています。バルセロナで優勝したけど引退したグツー。そして涙で自分が出るはずだった個人総合を見てたガリエワは、4年後執念でまた個人総合に出ていました(ロシア代表で)。
 ルーマニアでゴージャンとかミロソビッチが、アメリカでドーズやミラーが19くらいで元気で頑張っていますし。バルセロナとかソウルとかは19、20は『おばさん』でしたが、今年はこの年代が主流になっています(旧ソ連で前は出れなかった選手が、旧ソ連が崩壊して18から20くらいで次々に出てます)。やはりある程度胸が出てたり、大柄な選手が足をぴたりと合わせて技をすると見ごたえがあります。今回は小人の曲芸大会でなくなってきました(^_^)。なんか『大人の体操大会』になっていました。
 一国内で個人の団体規定と自由点を合わせて3位までが個人総合に出れるのですが、アメリカでケガをして不調のモセアヌは結局米国で4位だった。しかし3位のストラッグがケガで繰り上げで個人総合に出ています。この子くらいだろうか。まだ少女と言う感じは(^^;)。特に23になってるボギンスカヤの床なんて、技や点はともかく色っぽい(^^;)。鯖江の莫もかなり胸が大きくなっていますし、ホルキナ(ロシア)もどの選手も、力いっぱいバレエの要素を入れてゆかの演技をしていました。
 結局ミスが少ない選手が勝ち、ケガのモセアヌはやはり不調でした。今年は曲芸やサーカスというより、女らしさと力強さ、そして気品をもった選手が勝っていったようです。こういう大会であってほしいですね。
 
 アトランタで優勝したアメリカ女子体操ですが、主軸のシャノン・ミラーと鯖江の世界選手権で一躍アイドルになったドミニク・モセアヌが『ケガのため』アメリカでは最終選考会免除になって、そのままアトランタに出ていました。ただ、モセアヌはアトランタでは怪我の後遺症が残っていましたね。
 ミラーにしてもモセアヌにしてもデビューが14歳で、ミラーは15歳でバルセロナ五輪のメダリスト。モセアヌもミラーも、成長期の前からかなりきつい練習とダイエットをしていたから・・・かも知れません。骨がかなり弱っているということでしょう。しかも休みがとれない。アメリカの団体で、跳馬の片足着地で金に貢献したストラッグもバルセロナに出てますから、もうかなり低年齢から体操をして、しかも続けています。
 しかし、やはり幼少時からのきつい運動は、ドーピング以上に女子の成長期の選手に弊害が出ます。縦に力がかかる運動は、体の身長の伸びを止めるといいます。しかし背が高くなると、技に弊害も多くなります。段違い平行棒で大車輪ができにくくなるとか、平均台で4回宙返りが3回しかできなくなるとか。(昔は背をのばさない薬をのんでたと、まことしやかなうわさがありました)
 4年前、ガリガリの思春期前のような体だったミラーにしてもミロソビッチにしても、確実に胸が出て、横に筋肉もついて背が伸びてる選手もいて、それなりに苦労してたようです。あの中国の莫ですらバストが鯖江より大きくなってた。体操選手は背が低い。しかし思春期だから横に成長する。それをダイエットで調節して体の負担を軽くしようとすると、骨ももろくなるわけです。
 ところで、ボギンスカヤが23歳で今年欧州選手権で2位、そしてアトランタにも出ました。一回り大柄で(162センチでしたっけ)ありながら顔に笑みをたたえ、本当に体操が好きで好きでたまらない顔をしていました。女子で3回出場なんてめったにない。2回出場ですら、女子の場合は難しい。昨年世界選手権でチャンピオンであっても、1年後の五輪個人総合でメダルに手が届かない。そういう選手が何と多いことか。ボギンスカヤはソウル五輪銅メダルからです。あのとき15歳でした。16歳で1989年世界選手権に優勝、1991年の世界選手権でアメリカのゼメスカルに優勝をさらわれて『ここが欧州なら私が女王よ』と言ったものの、その後1992年バルセロナ五輪ではグツー(EUN)ミラー(アメリカ)ミロソビッチ(ルーマニア)の15歳トリオの前に、個人総合のメダルに手が届かず『19ではもうおばさん』と思って一時引退しながら、それでもアメリカでコーチをしながら、昨年鯖江に出て、22歳で円熟した幸せそうな演技でカムバック。アイスドールと言われたソウルから8年、円熟した大人の演技で、体操はけしてサーカスでないことを見せてくれました(^_^)。

 もっとも今後、女子体操は国際大会では15、五輪では15か16歳を最少年齢に規定されるようです。つまり鯖江のモセアヌのように14では出れないということです。そうでないとやはり『小人の曲芸』になりそうですし、少女の時期からのハードトレーニングでケガをしますから。
 今回一応男子の個人総合と女子の個人総合は見たけど、結局男子団体のショックで種目別は見てないのです。ごめんなさい。これはレポートできません。ということで、一応アトランタ概略だけ。

第28回 アトランタ五輪男子団体に思うこと、の巻

 男子体操、日本団体10位・・・目をそむけたくなるんですが、やはり書かないといけないと思う。
 バルセロナや鯖江の録画テープを見ると、やはり技は少ないけど『きちんとした、ていねいな体操』をしていた。特に規定。(これは全部見てるわけではないけど)実に細部まで。
 アトランタ・・・
 前田将良の負傷というアクシデントがあったけど、チーム戦を戦うのに、まずこっちは初心を忘れていたような気がする。鯖江の世界体操選手権2位をどっかにひきずってて、規定は大丈夫だろうと、あの以前のような切迫感がなかったような気もする。鯖江の時は、規定では何がなんでもトップに立つという気構えがあった。あとになって団長が『ここまでほかの国が規定を伸ばしてくると思わなかった』と言っていたが、情報不足だった。
 運もある。点が出にくい規定第2班で、しかもアメリカと同じだった。雰囲気にのまれた。しかも審判は実はアクシデントがあって極度の寝不足だった(アトランタの交通運営の悪さもあって、前の日3時間くらいしか仮眠できなかったらしい)とか。でも、第3班のロシアの規定は『同じ規定でも同じ演技がこれだけ美しくできる』と身をもって見せてくれた。鯖江の規定11位から、彼らは規定1位になった。1年間規定に練習の3分の2を費やしたという。規定という限られた技に、これだけ自由な美しい表現ができるとほれぼれした。かつては日本もこうだったんだ(規定のある最後の大会で思った)。もう、この時点で日本は甘かったと思った。規定で何とか6位以内に入らないと、自由演技で最終班に入れない=点が出ない。そこまで考えてなかったんだろう。
 自由。旧ソ連、中国に負けるのはしかたないにしても、やはり団体戦では『自分が確実に出来る技』を自由にもっていって、着地をきちんときめる。このきめとか、そして倒立の時の美しさが、今回本当に雑だった。言ったら悪いけど、確かに鯖江の時は足先まで努力の跡が滲み出るような団体戦だった。あれに感動したのは、努力が見られたから・・・。着地も『意地でとめてやる』だった(しかし、あれから特に美しさという所への進歩がない。この五輪からいくら規定が廃止され、技が重視されたとはいえ)。
 結局E難度ばかり練習して、鯖江で西川大輔とか佐藤寿治が徹底してやってた、あるいはバルセロナ五輪前に本番用の器具まで購入して行った強化練習で『着地を決める。足先まで神経を行き届かせる』...それが規定でも見られないまま、かえってつま先がひどく乱れたりして、あの鯖江のロシアチームの規定をおもわせるひどさだった。ここまで・・・と規定を見て悲しくなった。そのロシアは1年で規定に練習時間の3分の2を割いて、中国から王座をうばい返した。
 体操ってのは、いくら自由演技で大技を出しても、大技を狙って足先がみだれたり落下するより、きちんとした自分に身のついた体操でやればかならず成果が出るものなのに。これが出来てたのが、結局佐藤寿治と塚原直也だけでエース2人は浮き上がっていた。内山隆とか栗原茂は確かにはじめてのナショナルチームが五輪という不運がある。しかしなんでここでミスをするんだという凡ミスが多かった。前田将良のケガという穴があっても、どういう場合でもどの選手でも、全種目練習してほしかった。たとえば・・・今回ベラルーシはシェルボと並ぶ、エースのイワンコフが五輪直前にケガしたが、後のみんなが頑張った。日本も意地を見せてほしかった。(ナオヤは立派です。いきなり初出場で規定自由あわせて14位。しかしナオヤが2年間アンドリアノフさんのもとでやってたのは『基本中の基本』ばっかりだったのです)

 これからどうするか。このさい、日本体操協会は高校生をアンドリアニフさんのようなトップコーチにまかせ『とにかく基本を充実させて、その上から4年で積み上げるチームをつくっていく』しかないと思った。
 昨年鯖江の2位をとったチームは、主力が6年前の1990年アジア大会のときからずっと(池谷、相原は引退したけど)組んできた。途中でE難度不足に悩まされながらも規定がきれいだったので、基本ができ、そしてそのうえに難度の高い技の組み合わせをしていた。だからいくら難度の高い技をしても足先がきれいにそろってた。これはもと清風高校の監督の山口さん、そして日大の梶山さんがその方針だから(佐藤寿治、西川大輔はこのコース、清風から日大)かも。しかしその昨年のチームが実質今年解散して、過渡期だったのかもしれない。そう思うと、やはり今回はナショナルチーム編成が遅すぎた。いくらなんでも5月からというのは。今までのやり方ではダメだと、今回の五輪を見て痛感しています。シドニーでメダル奪回に行くには今までのように、塚原直也などを中心としたいま大学1年くらいになってる選手たちでチームを組ませ、4年かけてじっくり磨かないといけないのでは。
 そして、技はともかく、脚力の弱さ。これは痛感した。やはり『体操だけではだめだ』。陸上トレーニングなどをジュニアからやらないと、タンブリングが小さい。今回の体操は時代を先取りしすぎて、今回はあれほど日本がほこってた基本ができてないのにがっくりした。あれじゃ規定が点がのびなかったのは審判のせいだけではない。規定が出来てないのに難度ばかり、夢ばかり追い続けていたと思わずにいられない。高難度でも『きちんと足先をそろえる、倒立をきちんとする、そしてのびやかにやる。大きくする。着地をそろえる』などミスのない演技のほうが、今回ずっと点がいい。体操は難度の追求だけでない。基本的な『美しさ、力強さ、伸びやかさ』を、難度ばかりに気をとられ『そんなのは出来てる』と後回しにしてるような気がしてならなかった。それこそ日本の『美しい体操』だったのに。
 とにかくシドニーに向けて、体操陣は最低として『基本的な脚力、腕力などの体力』『倒立姿勢、車輪、そして跳馬ならロイター板の使い方』のマスターを徹底して行い、難度はそれからだと思う。100回やって100回同じことが出来る選手を。
 塚原直也は小学校までサッカーをやってた。今の彼の脚力はそれによると思うのです(これは西川大輔などにはない)。ただ共通点・・・2人とも自分が『不器用と自称』ゆえに、他人が10回やったら出来る技が100回やって何とか習得できるという。その100回をする。でもマスターしたらけして忘れない。
 とにかく、基本をもう少し徹底してほしいなと感じた男子団体の感想でした。...やはり国の体制は違うとは思うのです。たとえばロシアや中国は幼少時からの一貫教育でうらやましいのですけど。今回はそれだけではないのです。

第27回 1995鯖江世界選手権女子、の巻

 日本女子は、朝日生命の岩田香織、大川真澄、星山菜穂、さらにOB三浦華子。戸田市スポーツセンターの菅原リサ、内紛で結局朝日生命体操クラブの秘蔵っ子から社会人になってチャコットに入り、戸田市SC側に移った小管麻里。そして東海レッツクラブから、彗星のごとく(?!)出て来た橋口美穂。男子同様、こっちも猛練習でした。そして結局団体10位となってアトランタ五輪の出場権を獲得します。
 しかし...まずは日本女子大健闘でした。エース小管がこの大会前にもう歩けないくらいの怪我をして、結局規定の数種目と自由は1種目だけしか出場できないという非常事態で、あとの6人が健闘しました。

 1991年世界選手権でした。13位で、バルセロナ五輪団体出場権を失った瞬間を見ています。
 その年の秋、バルセロナ五輪代表選考(個人として3名出れる)となる全日本選手権で、塚原コーチのひきいる朝日生命体操クラブの点が高すぎると一部の体操チームがボイコットして(中には菅原リサちゃんの両親・菅原コーチが中心の戸田市スポーツセンターもはいっていました)リサちゃんは演技も出来ず、大人たちの勢力争いで泣いたのですが、あれから3年。結局あれをどん底にして、日本体操協会はロシアから強化コーチを招いたり、小管たち3人をアメリカに派遣したりすることになり、またまた一部の選手にだけひいきにしてると非難が出たり・・・と内紛がひどかったのですが、しかし、よくこれを乗り切りました。あの犬猿の仲だった菅原コーチと塚原コーチが一緒のチームにいるということが不思議ですが(3年前のボイコットからは考えられない)、でも、選手はがんばりました。
 選手起用について、コーチ間でもめていることは結構あったようです。しかし、一緒に強化合宿をしたりしてしだいに結束が強くなったようです。五輪を目指そう。
 しかし小管の、打撲による大ケガでピンチとなります。小管は規定は平均台で落下。ゆかはがんばったけど、自由は段違い平行棒だけ。結局、あとの6人がものすごくがんばりました。規定は10位で終わったけど、自由はほかの国が強く逆転されるかもしれない。12位内にはいらないと五輪へ行けない。すごいプレッシャーだったと思います。
 特に岩田は15歳で小柄ながら、精神的にすごく強い子です。たいてい1番手で出て、そして失敗なく終わり、あとに残った5人に負担をかけない演技をしました。それから、急上昇した橋口美穂は、非常に足腰の強いボーイッシュな選手で、小管のかわりにいいポイントゲッターになりました。圧巻はやはり平均台でしたね。岩田がミスなく演技したあと、次の星山、三浦が落下。しかし落下しても二人ともその後の演技を平然と続け、落下の割にいい点が出て。残り3人も自分の演技をしましたし、私はこの6人なら、なんとか後半のゆか・跳馬はいけると思いました。小管の出れない状態で、残り6人がミスを最小限にくい止めたのです。
 よかったのは、菅原リサ。お姉さんのように慕っていた小管が出れない。急に自分が中心にならないといけなくなったそのプレッシャーはすごかったと思います。しかし『リサスマイル』を見せていました。ゆかで最後に登場して、ランバダのリズムにのせこれ以上の演技はできないほどすばらしい演技をして観客を魅了しました。途中ににこっとわらい、そして最後に終わった後は観客がスタンデイングオベイション。菅原の演技そのものもよかったけど、前に演技した日本女子チームの、のびのびとした演技に対する賛美だったのでしょう。橋口美穂もよかった。大川も、岩田も、三浦も、星山菜穂も。最高の床の演技でした。
 最後に跳馬が終わって、残り8チームを残した段階で2位ということはつまり10位以内確定で、五輪出場決定でした。菅原が全部の演技が終わったあと小管に抱き着いてえんえん泣いていたシーンが印象的でした。

 こうして見ると男子もさることながら、女子も、NHK杯の最終選考会から数ヶ月で技をアップしたなとわかります。特に平均台の精神的な、そして技としての安定度はすばらしかった。平均台、今までの日本なら普通一回落ちるとその選手はめろめろになるし、後に続く選手は一緒に動揺して落下が続くけど、今回は落下しても星山菜穂も三浦華子もすぐに立ち上がって、技を平然と続けたのがよかった。落下しても9.1台というのはすごいことです。それに続く大川も、前の2人の落下がなかったように続けたのはすごかった。ここが今までの日本と違ったと思いました。小管の欠場、そして平均台で仲間の落下があっても『私は私のいままでの練習をみせよう』という、精神的に強いチームになってたな と思います。男子は団体メダル、女子は12位以内で五輪出場と、夢と目標が両方達成できて本当によかった大会でした。
 しかしこの直後、やはり小管麻里は引退します。

第26回 1995鯖江世界選手権男子、の巻

 鯖江で1995年10月行われた世界体操選手権で日本男子は団体銀に輝きました。メンバーは佐藤寿治、西川大輔、松永政行、前田将良、増田宏正、田中光、畠田好章。
 実は、日本男子は、五輪ではロスからずっと銅メダルをとってきたけど、世界選手権は1983年以来(それも銅メダル)です。銀は1981年ぶり。昔の強かった体操王国を知ってる私は、この15年の凋落ぶりを見てきました。どんどん強くなる他国。しかも規定が重要視されなくなり、規定王国日本にはどんどん不利に。しかも政治力も弱い体操の、その中でしかも、世界選手権で銀を取ったのは1年前の秋でした。
 まず鯖江開催ですが、これには地元のメガネ会社の社長さんが会社をほとんど倒産してまで、尽力をつくして誘致をしました。そして日本体操協会も全員一致でこれに向かったのです。
 選手にしても、バルセロナ以降国際舞台で活躍が途切れていました。1994年アジア大会においては規定なしの自由だけでしたが、韓国に敗れる。1994年の団体国別選手権では解体した旧ソ連のあおりをうけて、この3カ国が上に来てついに6位。
 とにかく自由の技の難度が低い。これは私も痛感していました。世界代表をきめる5月のNHK杯でも、せいぜいこれじゃ6位以内だなと(どんなに成功してもです)思うくらいの難度しかなかったのです。
 そして1995年5月のナショナルチーム結成以降、思い切った冒険に出ました。鯖江まであと半年もない。4カ月あまりしかないのに、全員の技の難度を上げるという賭けをしたのです。合宿を何回も重ね、また本番につかう器具を使っての、ものすごい強化練習でした。
 まず田中は昔やって失敗して、ずっとやっていなかった鉄棒の伸身トカチェフ1回ひねり(これは団体自由で佐藤寿治選手が落下したので安全策をとって団体ではやりませんでしたが、個人総合ではやりました)、平行棒の屈伸ベーレという、世界で田中光だけしかできない技にチャレンジしましたし、佐藤寿治・畠田好章も鉄棒でコバチ(これは佐藤は団体自由で失敗して落下。しかし果敢にも畠田好章は最終演技者としてこれを成功させました)を入れる。苦手な跳馬では(これは技によって点が決まるのですが)以前は全員が満点で9.50か9.60という難度の低い技だったのに、もう1回ひねるとかして9.80満点が出せる技にもっていくとか。それから、1人が失敗してもあとの選手が全員成功すればその失敗は帳消しになりますから、そういう土壇場の危険を想定した練習とか...
 とにかく、鯖江で初披露の技が多かったのです。ずっと見て来た私も、え?4カ月でこれだけ難度を上げれるの、と驚きました。全員がはじめてみる構成にしていたのです。全部の種目で全員が技を入れていました。そして次々と成功させ、しかも着地を決めたのは何かキツネにつままれた気分でした。
 少なくとも、その春の代表選考会の時とはかなり演技が変わっていて、初めて見るような構成でした。たった半年でこれだけ選手はうまくなるんだという、まさに奇跡です。
 
 半信半疑で無心に練習した選手たちも、1995年8月末、この畠田好章・田中光、そして増田宏正が出たユニバーアードの団体で金をとったことでやれると確信したようです。田中光も畠田好章も、あのユニバで初披露の技を次々と決めました。私はユニバ個人総合の田中光、畠田好章の演技を福岡まで行って見ましたが、床・あん馬などで構成を変えていたことを記憶しています。さらに田中はレベルアップの技をいれて、福岡では失敗したのですが鯖江では完成させていました。
 特に練習してた難度の高い技。団体、個人総合と畠田好章は鉄棒のコバチ、田中は鉄棒の伸身トカチェフ1回ひねり、平行棒の屈伸ベーレなど。これを生で見れてしあわせでした ^^。
 ユニバの個人総合では、畠田好章・田中光・増田宏正はさらにまたそれ以上に構成を変えていました。田中光は、跳馬のひねりにしたってユニバでは完成できてなかったのです。それで失敗して個人総合は低かったのですが、そういえば光ちゃんの(失礼)あのユニバの個人総合で失敗したところ(あん馬・跳馬・床)全部、難度を上げたところと一致してる・・・。
 この『無心の強気の攻めの姿勢』がよかったです。確かに中国は強かった。ロシアの自由も強かった。日本は自由演技に関しては、総合4位のロシア(規定11位から一気に4位です)、優勝中国と3点も差がありますし、3位ルーマニア、5位ウクライナ、6位ベラルーシよりも点が低く自由だけでは6位です。(ただし自由は3位のベラルーシから6位日本まであまり差がなく、横一線です。以前は2〜3点差がありました)特に床・跳馬ではまだまだです。確かに、ロシアの規定の不振に助けられての2位でしたが。
 最後に畠田好章が言った言葉『え?銀メダルなんですか。やったあ』...これが象徴しています。彼らは団体にかけてた。しかし無心の一言でした。あの大会、日本は神がかっていました(^^;)

 アトランタまでで規定は廃止になり、自由だけの戦いになり日本は不利です。ですから難度を上げること、規定の習得をパーフェクトにすることに努め、規定1位で自由に望んだのがよかったのです。
 しかし、大きな価値ある銀でした。日本の体操選手をめざす若手にとって本当に最高のプレゼントでした。メンバーの畠田好章、田中光にしたってそれまでに苦汁をなめていましたし(田中光は期待されながらバルセロナ最終選考会で8位に終わり、バルセロナ五輪に出れなかった)。
 西川大輔はソウルで高校生デビューを果たし、その後8年、常に日本代表を保っていながら、同期の池谷の引退、相原のケガという不運を見て来た。そしてバルセロナ以降は自身のケガと、世界のどんどん伸びる自由演技に苦しめられ、バルセロナ五輪の次の年の1993年ユニバでは7位という最低の成績をとり、日本の技の不足を痛感していた。佐藤寿治にしても、ソウル五輪に出ながらバルセロナ五輪は最終選考会で7位で補欠。試合には出れず銅メダルには参加できなかった。松永政行にしてもトップにはなれず常に中堅だった(もっとも彼はバルセロナ種目別で平行棒銅メダルでしたが)。93年から94年まで畠田好章はケガで大不振だった。増田宏正にしても前田将良にしても、社会人になって伸びてきた選手で、大学ではまったく無名だった。
 個人はチームの為に。チームのために最高の演技をしたいという7人の気迫があふれていました。そして地元の暖かな応援と、すばらしいボランティアの尽力で大成功した大会と言っていいでしょう。

 しかし、結局これでベテランたちが燃え尽きてしまったことと、安心してしまったことが、アトランタ五輪団体10位という史上最低の成績につながってしまうとは誰が予想したでしょうか。