第25回 旧ソ連の分裂、の巻
さて、今までソ連あるいは旧ソ連、EUNで出ていた共和国は1992年以降、まったく各々別の国で出るようになりました。
旧ソ連が強かったのは、一貫したジュニアの強化体制にあり、五輪でメダリストになるよりもとにかく国の代表になるほうが難しい。五輪より国内代表選考会の方がレベルが高いというくらい、凄い選手を次から次へと送ってきました。ソウル、バルセロナ五輪と団体だけでなく、個人総合の3つの金銀銅を独占したEUN。その後には、無数のハイレベルな選手が国内に残っていたということです。あのころ、西川大輔が国内でトップだったころですら、西川大輔並の選手はEUN(旧ソ連)では第3軍。ごろごろいる。幸い、バルセロナはEUNとして各国の選手が各国から出ないから日本は3位になれたんだ、と言われていました。
それはやはり(今の中国もそうですが)4、5歳くらいの少年少女を集め、親の運動神経まで調べた上で、国でステートアマをつくっていくというシステムからだったのです。その機関で育成されたステートアマが、今度は共和国が全部集まった代表選考会でそのトップ同士で戦い、やっと五輪の座を射止める。昨年世界チャンピオンだった選手が次の年には国内予選落ちすらありうる、そのくらい凄い旧ソ連だったのです。
が、そこが分裂した。確かにジュニア育成システムはもう国によっては不可能になったとはいえ、その遺産が各国(特にロシア、ベラルーシ、ウクライナなど)に散らばり、代表になる。言うなれば旧ソ連なみの強さの国が3つできたわけです。そして一度は崩壊しかけたジュニア強化体制も、ロシアではまた復活しています。アトランタ以降もどんどんいい選手が出てくるでしょう。きちんと強化体制があるのはうらやましい限りです。
ただ、この分裂によって、ベラルーシのようにジュニア強化はおろか、現在の強い選手も経済事情から母国で練習できなくなり、シェルボにしてもボギンスカヤにしても国を離れ、スポンサー探しをしないとやっていけない国も出てきています。
第24回 93-94年・日本体操の流れ、の巻
実は1992年の秋、全日本体操選手権を見にいきました。そこで相原豊選手が優勝。そして池谷選手が2位。あと田中光、畠田、西川と・・・これから制度が変わり、ますますE難度が要求される体操で、なんとか彼らならやってくれるだろうと安心していましたが、池谷は直後引退。そして技の多彩さでおそらく日本の中心となるだろう相原選手の、直後の不覚の致命的な交通事故で、この第2期黄金時代はあえなく衰退に向かうのです。思えばあれが、相原選手の最後の大きな試合だったんだ・・・と(正確にはその翌月の中日カップにも優勝)西川大輔・池谷幸雄・相原豊ファンだった私は、いまさらながら相原選手の大ケガが悔やまれます。
さて、1992年バルセロナ五輪まで、10点満点制度で
難度 4.0
構成 1.0
実施 4.0
加点要素 0.6(決断性0.2/独創性0.2/熟練性0.2)
さらに加点が加わる。という採点制度が行われていましたが、きわめてあいまいになり、すぐに満点や9.90が審判の主観で出るようになってしまいました。そこで、客観性をもたせ、もう少し難度の加点も統一しようとして、1993年から新しく
難度 2.4
特別要求 1.2
演技実施 5.4・・・ここまでで9.0点満点
加点 1.0
となりました。女子は男子と違って少々点が出安いことに気がつかれた方もいるかも知れません。女子は改正後、
難度 3.00
構成 2.20
実施 4.40で、ここまでで9.6点。それに加点の0.40点が加わります。
その加点ですが、さらにD、E難度の技を(正確に)実施することで加点していく方法を取ります(跳馬以外です)。D難度の技には0.1点。E難度の技には0.2点が加点されていきます(実施しても失敗したら減点です。成功してはじめて加点がとれます)。たとえば、鉄棒のコバチはE難度なので、成功すればさらに0.2点追加、伸身トカチェフはD難度なので、成功したら0.1点追加になります。
1983年からアトランタまでは、この採点法に『組み合わせ加点』が入りました。つまりD難度の技を続けて行うとDプラスDで0.1点がさらに追加されます(ですからDふたつで0.1×2、 さらに組み合わせ加点で0.1点の合計0.3加点。D難度からE難度に連続して組み合わせると0.2点の加点がもらえDで0.1、Eで0.2。さらに組み合わせで0.2点の合計0.5加点)。
しかしこの組み合わせ加点もアトランタ以降廃止になり、かわりにDは0.1点、Eは0.2点加点は同じですが、スーパーEという難度が0.3点に加点されます。
特別要求とは、あまりにもサーカス化することをおそれ、自由演技の中にこれだけは必ず入れないといけない3つの課題要素を織り込むことです。これが出来ないと、1つについて0.4点減点されます。
難度ですが、各種目によって必ずルールブックにのってるA難度をいくつB難度をいくつC難度をいくつか最低入れることで、入れてないと減点されます(昔の構成と似ています)。また、同じ技ばかり続くような構成だと構成減点がされます。たとえば難度は男子自由演技の場合、A難度4技、B難度3技、C難度2技、D難度1技が要求されていて、その難度に達してないと減点されます。
演技実施は昔の実施です。いかにその演技が正確にできるか。たとえば鉄棒の着地で足一歩動くと0.1の減点、落下で0.5と決められ、また足の割れなども厳密に減点されます。
跳馬は少し違います。これは前からですが、跳び方に『価値点』が設けられ、たとえば伸身クエルボ跳びでひねりがないと、いくらきれいに実施しても9点台前半しか出ない。伸身カサマツ1回ひねりだと満点が9.8点(だったと思います)というように、跳び方によりどんなにきれいに跳んでも点数の上限が設けられています。1993年からさらに男子は、跳躍の長さが問題になるようになりました。着地点に基本ラインがひかれ、そこまで飛べないと減点、距離を出しかつ着地まで決めて飛ぶと、加点されます(この距離加点はバルセロナ-アトランタまでで、1997年より廃止されます)。
採点は昔と同じです。主審のほかに男子4名、女子6名(合計男子5名、女子7名)が採点して、最高点と最低点をカットして、その平均点を決定点としています。
さて、これで今まで基本的な美しさを求め、E難度が少ない日本体操はたいへんなピンチをむかえました。日本はこの国際事態に対して完全に遅れをとっていました。
まず、1993年のユニバーシアードバッファロー大会は自由演技だけ、しかも新しい採点ルールで行われ、社会人1年になった西川大輔や筑波大3年の田中光たちが中心になって出たところ、結果は過去最低の7位。しかも点が今まで9.60くらいとれたつもりの演技をしても、難度が低いのでいくらノーミスでも9.0前後しかでない。日本は最大のピンチを迎えたと感じました。
しかも中軸になってくれるはずの、バルセロナ中心トリオの池谷幸雄は引退。相原豊は交通事故で復帰は絶望的になって層も薄く、西川大輔はまさに孤軍奮闘でした。まだ田中光と畠田好章が中心になるほど、彼ら2人もオールラウンダーには育ってない。西川大輔もたびかさなる試合試合で休息できず、傷をいつも抱えたままの演技。
日本は一応、組み合わせ加点で点を稼ごうとしました。そのころE難度ができるのも畠田好章のあん馬と鉄棒、田中光の平行棒などくらいしかないのです。しかし。D難度の組み合わせで組み合わせ加点をもらおう、ひとまずE難度習得はおいておいて・・・という考えの甘さをもろに白日のもとにさらされたのが1994年でした。
1994年秋、広島アジア大会。バルセロナの代表から相原と池谷が抜け、かわりに田中光と前田将良が加わり、いうなれば鯖江への前哨チームだったのですが、中国はおろか韓国にも技の難度で完全に負けて、自由演技だけの団体で3位という結果になり、しかも金メダルはE難度を取り入れた畠田好章の種目別あん馬だけ、という結果になりました。ついで、秋におこなわれたドルトムントの世界団体選手権で、規定では3位だったものの、自由だけで行われる決勝では中国、旧ソ連3カ国、ドイツに断然引き離され6位。史上最低でした。
技の組み合わせ加点では上限があり、D難度だけでは戦えない。来年、地元鯖江で行われる世界体操選手権に向け、あまりにも大きな宿題でした。とにかくE難度を習得しないと世界に通用しない。
第23回 バルセロナ五輪、の巻
日本男子は池谷幸雄(日体大)、西川大輔(日大)、相原豊(日体大)の大学4年トリオプラス畠田好章(日体大2年)、知念孝(河合楽器)、松永政行(河合楽器)というベストメンバーでそろえました。西川、池谷、相原はいちばん油ののった大学4年生、そして畠田は2年生。松永は卒業後すぐ、そして知念はベテラン社会人、補欠は佐藤選手でした。
しかしソ連は強かった、ひたすら強かった(^^;)。これまた最強メンバーで、シェルボ、ミシューチン、コロブチンスキー、ベレンキ、コリバエフ、シャリボフでした。でもソ連もこれ以降、この混合チームで出ることはなく、体操王国最後のドリームチームでした(これ以降ロシア、ウクライナなどに別れます)。このバルセロナ五輪にはソ連は「EUN」として出ました。
本当につかれたように2週間、夜中も全部見たなつかしいバルセロナの夏でした。彼らが団体3位になったとき、この4年間彼らとともにこちらで笑い、泣いた思い出(ソウル以降)がほうふつさせられ、団体で銅メダルをうけとる時、不覚にも涙がとまりませんでした。おめでとうと・・・私にとっては至福の1週間でした。
西川大輔が団体自由で決めた、伸身のゲイロードはいまもやってる人は少ないと思っています。しかし、その後池谷が引退し、相原が復帰不可能の大ケガを負い、切なくてこれ以上書きにくい・・・。
一方、日本は団体出場できなかったけど、EUNなど中心に十分楽しめたのがバルセロナ体操女子です。
EUNとして出る最後のチーム、ボギンスカヤは個人ではメダルなしでしたがまとまったいいチームでした。優勝した瞬間、みんなが精神的な支柱だったボギンスカヤに抱き着いたのが印象的でした。EUNはグツー、リセンコ、ボギンスカヤ、チュソビチナ、グロネドワ、そしてガリエワだったのですが、実は団体自由でグツーは平均台から落下してEUNの中で4番手になり、当然個人総合(各国上位3人まで)に出れないはずなのに、ガリエワがケガしたということで彼女が代理で出て・・・という納得のいかないこともありました。
なお、個人総合で3位内はすべて15歳という女子の低年齢化、そして低体重低身長化が指摘された大会でした。1991年の(その前年の)個人チャンピオンから3位までのゼメスカル、ボギンスカヤ、ボンタシュは若い15歳パワーにおされ、やっとボンタシュがゆかで3位。個人総合では4位ボンタシュ、5位ボギンスカヤと、昨年の活躍者はもはや過去の人・・・という、時の流れをものすごく感じさせられる大会でした。
日本は団体に出られず、個人として小管、三浦、瀬尾が出ました。瀬尾にとってはソウルの直前にケガして出れなかったので初の舞台。小管も、三浦もでした。しかし、小さくて細い選手の曲芸のようなバルセロナは、なんか昔の優雅な時代を知ってる私にとってはいまひとつ別世界みたいでした・・・。
第22回 インディアナポリス世界選手権、の巻
1991年世界選手権(アメリカ・インデイアナポリス)。
上位12位までに五輪の団体出場権がかかったこの試合で日本女子は13位。惜しくも翌年のバルセロナ団体の切符がとれず、史上初の団体出場不可能を宣言され、女子の強化が問題になった年でした。ちなみにこのときの代表は小管麻里、瀬尾京子、真田マキ子、河田浩衣、三浦華子、新井由可(補欠菅原リサ)。
ボギンスカヤが『欧州で世界選手権があったら私が女王だったのに』という台詞をはいたくらい、ゼメスカル(アメリカ)の点が伸びて、アメリカのお祭りのような地元ひいきの観客に圧倒された試合でした。
ここでだいたいバルセロナの主要選手が出揃います。ルーマニアのエース、ボンタシュはかっこよかったし、中国の揚波(ヤンボー)の輪飛び(平均台での背をそらした跳躍)とか、ハンガリーのオノディは跳馬で銀をとったものの、あとの平均台で落下したり、ゆかで転んだりとまさに踏んだり蹴ったりで、そのつどコーチに抱きついてわんわん泣くところが可愛かったことを覚えています。
北朝鮮のキム・ガンスクは段違い平行棒で『ゲイロード』プラス『シャオ』という男子顔負けのはなれ技をやって、満点でした。あれはすごかった。また、もうここでミロソビッチ(ルーマニア)やチュソビチナ(ソ連)、ミラー(アメリカ)などアトランタにも出ている選手が14歳で登場しています。
男子の日本団体メンバーは西川大輔、池谷幸雄、相原豊、知念孝、松永政行、畠田好章(補欠田中光)。この年佐藤寿治は怪我で不調でした。西川大輔、池谷幸雄、相原豊の大学3年トリオを中心に、日体大の1年になったばかりの畠田好章を加え、あと日大4年の松永政行と非常に若い陣営でした。社会人は知念孝のみ。(バルセロナもこの陣営です)
本当に期待され、人気もあり、団体銅メダルをねらいに行った日本。団体規定ではドイツや中国と大接戦だったのですが、やはり、まだこなれていなかった団体自由の鉄棒で西川と相原が落下し、ドイツに突き放されました。このとき相原豊はシャオを、西川選手はゲイロードをもっていったのですが2人続けて・・・・落下。西川大輔が団体自由で失敗し、床にこぶしをたたきつけたあの瞬間が忘れられません(あの新聞いまだ持っています。若さを露呈、エースがいないと酷評されました。団体4位には)。
そして、池谷は個人総合でいきなり平行棒で大ミスをして、下から2番目のスタート。最後13位まで上がったものの、西川が強豪の中で7位入賞を果たしたのに対し、控室で悔し涙にくれたこと。
それから、種目別では跳馬の相原選手のひょうひょうとした姿の銅メダル。西川がパーフェクトな演技をして、ゆかで銅メダルをとったことなど。そして何と言っても、池谷がゲイロード失敗で鉄棒にアゴからたたきつけられ担架で退場したこと・・・全部新聞をとって録画して、なんかはらはらどきどきの1週間でした。
ソ連もミシューチン、シェルボ、コロブチンスキー、ベレンキ、リューキンなど、翌年のバルセロナを見越したメンバーでした。そして中国も李敬、李春陽、国林躍、李小双・・・などあの最強のナショナルチームを組んで出てきました。とにかく中国とソ連が強く、なんで・・・?というくらい。これはもう、この2つの国には勝てないと実感しました。
第21回 シュツットガルト&北京アジア大会、の巻
1989年、ソウル五輪の次の年にシュツットガルトで行われた世界体操選手権。
男子団体は中国が一気に若手を導入して2位。1位はもちろんソ連で、日本はメダルを逸しました。やはり世界の壁は厚かったようです。団体は1位ソ連、2位中国、3位ドイツで日本は4位でした。
ただ、池谷が頑張りました。個人総合では4位に食い込みましたし、また大会を通じて唯一のメダル(鉄棒で銅)も獲得しました。また、ここではすべての国がソウル五輪から1年しかたっていないのに、次々と難度の高い技を取り入れてきて、日本はふたたび技の開発の遅れをいわれました。
個人総合は1位コロブチンスキー(ソ連)、2位モルギニー(ソ連)、3位李敬(中国)と ソウルに出てない新人ががんばりました。特にコロブチンスキーは跳馬で当時最高難度のローツェをやって大喝采をあびたことを覚えています。
女子は中国が健闘しました。団体は1位ソ連、2位ルーマニア、3位中国でした。また、女子個人総合はソ連のボギンスカヤの独り舞台でした(→第19回)。背も高く優雅で、旧来の女子の美しさをそなえた彼女は一気にスターの座に上りました。
池谷・西川はソウル五輪で高校3年生、その後ものすごいマスコミの取材をうけ、1988年からの体操人気は衰えず。二人は大学1年でした。
その翌年、北京で行われたアジア大会。1990年はこれが体操のメインでした。日本代表は、男子が西川、池谷、相原、松永、佐藤、畠田(補欠岩松)。ここでもう、高校3年の畠田選手をふくめた、バルセロナまでのナショナルチームができたわけですね。当時大学2年の西川、池谷、相原と大学3年の松永、4年の佐藤と高校3年の畠田という、とにかく若いチームでした。本番では相原が団体の途中で腕を痛め無念のリタイア。もうひとりも失敗できない状態で2位を確保できたのは、すごい。5人だと、途中で1人でも失敗したら点がもろに合計得点に響くので、失敗せずに終わったときはほっとしました。
しかし、中国チームが強かった。
個人総合では、西川大輔が4位に食い込みました。
女子は小管、瀬尾、信田、三浦、真田、河井(補欠小澤)。でも段違い平行棒の入り技でいきなり4人が立て続けに落下して最下位からのスタートでしたから(くい止めたのが瀬尾。そして小管は失敗しませんでした)団体はめちゃくちゃでした。女子の精神的なもろさを指摘されています。ただ、このアジア大会で唯一の金は瀬尾京子の跳馬でした。