第20回 ソウル五輪新体操とビアンカ・パノバ、の巻
妖精パノバ。今、新体操ファンで『一番好きな選手は』と聞かれたら彼女を上げる人は多いと思います。ブルガリアの妖精、パノバは1987年(ソウルの前年の)世界選手権で、全種目10点で完全優勝。その容姿・技術と相成り、彼女こそ絶対の(ソウル五輪の)優勝候補といわれた選手です。
ふだんでも163cm、47kgくらいで十分スマートなのに、試合前には絶食というくらいのダイエットで42kgくらいに体重をおとし、まさに骨と皮で出来た、透き通る人間でない妖精のような容姿で、しかも確実な演技をする。そのあえやかな容姿と相成って、人気は抜群でした。
しかし新体操は、五輪ルールでは予選4種目の合計で決勝進出者を決め、その予選の点も入れて決勝でまた4種目こなし、その合計(満点は80点)で決めます。予選で少しでもミスしたら(その当時は満点がぼんぼん出る競技規定でしたから)金メダルは無理とすらいわれたくらいです。
さて、満点ぼんぼん・・・で始まったソウル五輪新体操でしたが、いまだに覚えています。
パノバがこん棒の演技で、こん棒を落とした瞬間を。
ショパンの別れの曲にのって演技をしていた妖精が、一瞬の技のミスで、投げ上げたこん棒を場外に落とすというミスを犯し、この種目だけ10点満点がとれず。そしてあとの予選3種目と決勝4種目に満点を出しながらまさかの4位でメダルなし。あとはとにかくノーミスで満点ばしばしのロバチ(ソ連)や、同僚のブルガリアの ドナフスカがメダルをとりました。ロバチにいたっては全種目満点。しかし、ソウル五輪は(たとえメダルに手がとどかなかったとしても)、あのショパンの別れの曲の、こん棒のパノバが一番印象的です。一瞬の美の女神のいたずら・・・あれほど10数年練習して何百回、何千回練習した(そしてほとんど成功してた)こん棒の投げあげとキャッチが、よりによって五輪で失敗するなんて本当に残酷なことですね。
苛酷な練習とダイエットで、アイスクリームが大好きな少女はその後すぐに引退しそして結婚しました。
あの後ルール改正もおこなわれ、満点が出にくくなったのですが、新体操そのものも変わってきました。選手もパノバみたいながりがりより、むしろスタイルがいいけど人間性も感じさせられるスポーツ体型の選手が好まれるようになりました(細すぎる場合は、かなりの減量のための無理がたたり選手生命が短くなるとか、骨折するとかいろいろと問題が出てきたから)。やはり私も、今ビデオを見てもあの当時は何でここまでガリガリの選手が演技してたのだろう、と思います。あの豊満な(スタイルはいいけど)ユニバの美の女王・ペトロバを見たときは、彼女(ペトロバ)の演技に人間らしさを感じました。
・・・しかし、一瞬の残酷なミスが彼女、パノバの手からメダルを奪った瞬間は忘れないでしょう。
第19回 スベトラナ・ボギンスカヤ選手、の巻
スベトラーナ・ボギンスカヤ(旧ソ連、現ベラルーシ)
彼女の世界デビューは1988年ソウル五輪(旧ソ連)からです。15歳で彼女は檜舞台に出ました。ソウル五輪は旧ソ連のシュシュノワ、ルーマニアのシリバシュの壮絶な個人総合争いだったのですが、ボギンスカヤは15歳ですでに妖艶さ、しなやかさ、女らしさという、過去の遺産になってしまってる体操の本来の美をもってしなやかに演技して、個人総合3位になっています。
すでに160cm近い身長。演技そのものの妖艶さ。そして、もって生まれた表現力で、16歳の彼女は1989年のシュツットガルトの世界選手権で個人総合優勝します。その時の床でも種目別金メダルだったのですが、そのまるで床運動というよりバレエを見てるような演技にみな見とれ、また『再び体操に女性らしさ』の時代が来ることを期待していました。
しかしその2年後、1991年インディアナポリス世界選手権。個人総合でボギンスカヤはゴム毬娘のズメスカル(アメリカ)に個人総合の金メダルを奪われ、その大会でも主流は女性らしさより軽業師の少女の大会になってしまいました。
翌92年、彼女は19歳になっていました。バルセロナ五輪、身長16cm(旧ソ連、また全選手の中で一際目を引く長身でした)の彼女は、この大会で引退することを決めて出場しました。しかし、ここでも主流は軽業の少女たち。個人総合で3種目まで3位につけていた彼女も、15歳トリオのグツー(旧ソ連)、ミラー(アメリカ)、ミロソビッチ(ルーマニア)の前に危うくなります。最終種目、15歳の身長140前後の小人のような少女たちの高得点。ボギンスカヤの最終種目は平均台でした。彼女はめりはりのある演技ほぼ完璧に行いますが、最後に一瞬ぐらっとして結果9.912。個人総合5位、種目別でもメダルゼロに終わります。
彼女は引退しました。また女子体操は小人たちの軽業師の競技会になったと痛感して(あの最後に見た彼女の姿はさびしそうでした)。
しかし。アメリカでコーチをしていた彼女は、3年後に見事カムバックしました。1995年、鯖江の世界選手権にも出場。3年前にまったく見せなかった楽しげな笑顔を見せて。そして、さらに1996年欧州選手権で見事2位になっています。23歳の彼女、妖艶さもさることながら体操が本来もってる女性の美しさ、楽しさをもって、ベラルーシ代表としてアトランタ五輪にも出ました(個人総合14位)。
第18回 シュシュノワVSシリバシュ、の巻
ソウル五輪女子個人総合、ソ連のシュシュノワ19歳、ルーマニアのシリバシュ18歳。ともに引退を思っての、国の威信をかけての体操女子個人総合だったのですが・・・
持ち点は 団体規定と自由が終わってシュシュノワが0.05リード。そしてなんと自由演技は2人とも同じ班でした。よけいにすごかったですし、勝敗が最後まで解りませんでした。
段違い平行棒でシリバシュが満点を出し、シュシュノワが9.90で逆にシリバシュがリード。そして平均台、ゆかと負けず劣らずの勝負で、0.025シュシュノワがリードして迎えた最終種目が跳馬でしたが・・・ここでまたしても跳馬(ロスのサボーとレットンを思い出しました。レットンが最後に優勝を決めたのは跳馬の満点、そしてサボー9.90の決着でした)。女王が満点で優勝するという歴史が繰り返されます。
同じ班で、シリバシュは先に演技したのですが、空中でわずかに足がひらいて9.95。で、鬼気迫った顔のシュシュノワ。ここで9.975なら同点優勝、それ以上で逆転です。最後に満点をだしたのは、まさに執念でした。しかもシリバシュと同じ飛び方で。女王はシュシュノワ、差はわずか0.025でした。シュシュノワの笑顔と対象的なシリバシュの泣き顔が印象的でした。あれは、わずかに執念がシュシュノワのほうがシリバシュより強かったからかもしれません。
しかし、次の日の種目別ではシュシュノワは散々(^_^;)。種目別で3つの金をとったのはシリバシュ(これもサボーのロス五輪と似ています)。シリバシュの笑顔勝ちでした。
ここで、シリバシュの4つ目の金を阻んだのが、ソ連の新鋭ボギンスカヤでした。
第17回 ソウル五輪で団体銅、の巻
ああ、そうだそうだ、よかったよかった・・・のソウルでした。男子体操、これでまた私は体操日本を見限らずにすんだのです。ソウル五輪男子体操団体自由のビデオみましたが(^^;)、あのころはベータで、機械がその後故障して、それをVHSにしてもらった何本かのうち結局今VHSで見れるのは、男子団体自由と総集編だけなんですが。
日本男子体操は小西裕之(紀陽銀行)キャプテンで、山田隆弘(大和銀行)、佐藤寿治(日大2年)、水島宏一(日大大学院)そして清風高校3年の池谷幸雄、西川大輔の6人でした。
団体規定でまさかの3位(いい意味でです)。中国に1.25差をつけたのですが、さて自由。本当にプレッシャーがないかのように西川、池谷は飛び、まわり、躍動していきました。
自由の1種目めはつり輪3位(いずれも1位ソ連、2位東ドイツ)、2種目めは跳馬で3位、3種目めは平行棒で3位、4種目めが鉄棒。ところがライバル、中国は得意の床で高得点を出しあっさりと逆転して中国3位、日本4位で、5種目目は床。あまり得意でない種目だったので、またつり輪で高得点のブルガリアにも逆転を許し、ここで日本は5位に。
6種目目はあん馬。ソ連、東ドイツ、中国、ブルガリア、そして日本の順位でむかえた最終種目で、ソウルの奇跡がおこります。山田9.75(チームの一番手が高得点だと後に高得点が続く)、池谷が9.80。小西9.90(こんな得点はまさか・・・と後に小西さんが言っていましたが)、あと、線のきれいな佐藤が9.90。ここまでで大接戦だったのですが、ここで奇跡の満点が出るのです。水島が満点でブルガリアを抜き、最後が西川。この時点ではまだ中国との3位争いは確定していなかったのですが西川がしなやかに満点。これで山田の9.75が切りすてられ、日本は3位確定でした。
解ったとたん、座り込む中国。そして輪になってなきじゃくる日本の姿を、会があって途中から帰ってきた私もリアルタイムで見れて幸せでした。
すがすがしい高校コンビの池谷、西川のもたらした団体総合3位でした。
(私注:以前、雑誌のインタビューで西川選手が、この時は自分の前がずっといい得点で(特に水島さんが満点を出して)きたので、もう自分は失敗してもいいような状況だったのでプレッシャーがなく出来た、というようなことを言っていましたよね)
第16回 1984〜87日本体操低迷期、の巻
いきなりソウルにもって行く前に・・・
84年から87年まで本当に、日本体操の低迷期でした。
85年にいきなり世界選手権で男子はメダルなし。団体はじめての4位。
86年アジア大会でも男子団体は韓国に負け3位。
87年11月に世界選手権でまたもひとつ下がって5位。
冬の時代と言われ、体操は人気を完全に失っていました。私はいいかげん、男子体操にみきりをつけてたんですが(^^;)。あのころは水島さんしか応援してなかった。水島宏一さんについては資料が少ないのでまとめれるかどうか解りませんが、彼が活躍したのは1985年から1988年でした。特に、ソウル五輪男子団体自由3位の立役者。最終種目あん馬は5番目に演技して満点。これでブルガリアを逆転、そして最終演技者の西川大輔の満点。彼がいたからこそ(満点のあん馬をしたからこそ)ソウル五輪の奇跡とも言える団体3位が取れたと思っていますし、いまだこのソウル五輪男子団体総合自由のビデオは貴重な宝物です。実は個人的に84年から88年にかけて長女出産後病気にかかってしばらく半年以上の入院・絶対安静と自宅療養生活を余儀なくされたり、その後すぐに仕事をもって復帰して、小さな長女を抱えて仕事と家庭との両立の一番苦しい時期で(もちろんその時はビデオなどありません)水島宏一さんのファンでありながら、世界選手権や日本選手権を見る時間がなく新聞でしか情報を集められなかった時です。
彼は、全日本選手権個人総合優勝者一覧表を見ればお解りのように86−87年、日大の学生時代に個人総合優勝しました。しかしながら当時日本は世界選手権では団体4位とメダルを取れず、また87年の世界選手権でも団体5位と、低迷期と言われた時代でした。85年の時は、それでも種目別で小西裕之があん馬、具志堅幸司が平行棒、渡辺光昭が鉄棒、山脇恭二がつり輪でそれぞれ銅メダルを取ったのでメダルゼロは免れたといえ。87年には世界選手権で文字通りのメダルゼロでした。
水島宏一さんはその時エースとして,同じくソウル五輪にキャプテンとして出てた小西裕之さんたちと一緒に何とか踏ん張っていた選手でした。非常にきちょうめんできれいな体操をされていた選手です(また優しい顔立ちの選手で女性に人気もありましたね(^^))。87年の世界選手権では団体5位ながら個人総合では日本人最高の10位にはいっています。平行棒では5位、床7位。ちなみにこの世界選手権、女子では不敗神話を誇ってたソ連をルーマニアが負かし優勝。個人総合がドブレという、これまたルーマニア女子の世界選手権です。
その後日大大学院でソウル五輪で団体3位(これは前にも書きましたが)、個人総合で10位(池谷幸雄8位、西川大輔13位)。種目別あん馬では2番目の点だったのですが、なんとこのソウル五輪あん馬では金メダルが同点で3人出て、あと1歩でメダルに及ばず4位です。何よりも団体総合で3位が決定したとたん、今までの苦しかったことと感慨きわまったのか若い高校生西川大輔、池谷幸雄や小西裕之さんたちと抱き合って泣いた情景をリアルタイムで見れて幸せでした。今まで感動したスポーツシーンベスト10の中に必ず入れたい情景です。あの優しい水島宏一さんの目から涙がこぼれたことを忘れられません。日大大学院から大和銀行、そして現在は東京学芸大学の助手および体操部の監督をなさっています。
私も個人的に好きな選手です。非常に線がきれいで、しかもきちょうめんな体操をされ、言うなれば通好みというか。派手ではないけど姿勢欠点がなく、どの種目においてもミスが少ないオールラウンダーでした。ていねいな体操だったと記憶しています。非常に一個一個の動作を丁寧にされていました。彼の足のつま先が好きだったのですね。特にソウル五輪団体自由のあのあん馬は素晴らしかったと思っています。
失意の秋(ロッテルダム世界選手権)から1カ月たった12月でしたか。
第1回国際ジュニア大会(横浜)で高校生の2人を偶然見ました。テレビですけど。
しなやかな開脚旋回を(あん馬で)信じられない速度でする少年。それが西川大輔でした。
床でものすごく脚力をみせた少年、それが池谷幸雄でした。まだ本当に子供だった。
この高校2年生、そのとき『ああ、これなら次の5年後の五輪は何とかなるかな(翌年のソウルでなくて)』と、うっすらと思ったのですが・・・10年近くたっても、あの2人を初めてみたときの、あまりにも鮮烈なデビューの印象は瞼に焼き付いています。そのくらい初々しく、そしてしなやかな演技。それがソウル五輪の前年の1987年の秋でした。それが翌年のソウル五輪選考会でなんと西川がNHK杯を、高校3年でとってしまうんですね(当然五輪代表に)。
で、女子ですが、劇的なことが起こり87年に世界選手権で不敗神話の団体(旧)ソ連が、なんとシリバスやドプレ擁するルーマニアに優勝をさらわれます。そして個人総合もルーマニアのドプレでした。また、ちょっと前に旧ソ連はイリナ・ムヒナって選手がいたけど半身不随の大ケガをしたこと。それからこのころソ連には、オメリヤンチクってすごくかわいい選手がいました。(彼女の技は、未だオメリヤンチクという平均台の技として残っています)