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体操の歴史(その3)

第15回 レットンVSサボー、の巻

 さて、旧ソ連も東ドイツも不在ながら東側からルーマニアが出て賞賛された大会であるとともに、女子も男子と同じように五輪初出場の中国旋風が吹き荒れた大会でした。

 ロス五輪女子体操個人総合・優勝メアリー・ルー・レットン

 エカテリーナ・サボー(ルーマニア)と、メアリー・ルー・レットン(アメリカ)の個人総合の争いです。レットンのコーチは皮肉にも、ルーマニアを亡命したベラ・カロリーさん。両国の威信をかけた熾烈な女子個人総合争いは、最後まで行方が解りませんでした。
 個人総合最終日の3種目め、ゆかで9.950をたたき出したサボーが、平均台で『グラッ』ときて9.800に終わったため、レットンがここで途中ながら逆転しました。しかし最終種目までは、レットンとサボーの差は0.050でサボーがリードでした。サボーは段違い平行棒の着地で、足が一歩下がって9.900。ですから、最終種目の跳馬でレットンは9.950を出せば同点。10点で逆転です。
 跳馬で着地までピタッと決めたレットンは、観客の満点コールで10点を出してしまって、最終種目でサボーを大逆転。個人総合の女王となりました。あれは私も実際見ていましたが、ゴム毬娘のようなレットンが、観客の声援で次々に毬がはじくような演技をして、体操も変わったと思ったことを覚えています。そして、その数日後にはレットンに山のようなコマーシャル依頼が、各企業スポンサーから届くようになります。
 それから、レットンを育てたのはかつてコマネチをルーマニアで育てたコーチのベラ・カロリーさんです。アメリカに亡命して、そして体操クラブで幼児くらいからの選手を育成。その1期生にあたるレットンが、かつてカロリーさんが育てたルーマニアの選手を破ったことになります(ただしルーマニアはこのとき、団体総合ではもちろん優勝でした。もちろん、このロス五輪は東欧諸国・旧ソ連が不参加でしたので、はっきりとは言えないにしろ)。

 ルーマニアのサボーってけっこう可愛かったけど、アメリカのゴム毬娘レットンとの女子個人総合の死闘はすごかった。一種目ごとに1位が変わるものでした。でも最後でサボーが満点をとれず、着地をきちんと決めたレットンが満点で優勝しました。
 あのときのサボーいわく、『なんであれ(レットン)が満点なのかワカラナイ。私が星条旗のユニホームを着てると満点をもらえるのかしら・・・』
しかし、あと種目別で3つ金をとったし(ゆか・平均台・跳馬)ルーマニアも団体金メダルで、サボーは意地を見せました。
めでたしめでたし。・・・とはいかないか・・・。
なんとなく後味の悪い採点だったんですよね(最後が跳馬、いうのも何か因縁があるのかしら・・・ソウル五輪のシリバシュとシュシュノワも、最後が跳馬で、空中で足の開きがあったシリバシュが負けて、完璧に後からとんだシュシュノワが勝ったのだったんですよね)。

第14回 森末慎二選手の鉄棒金メダル、の巻

 1984年ロス五輪金メダリスト(鉄棒)森末慎二。
 ソ連がボイコットしたこの大会でしたが、確かに変な大会だとは思っていました。大技の熟練度より着地つまりフィニッシュさえ決まれば10点がとれるという試合でした。

 で、森末慎二は実は大技の鉄棒や平行棒ではスペシャリストでしたが、総合得点に弱く、国内予戦ではようよう6位で、ぎりぎり日本脱出したのですが、ロスでは鉄棒で団体規定・自由とも満点の連続でした。特に団体自由はすごかった。今でもE難度の降り技の3回転宙返りを(畠田好章がやっています)決めました。
持ち点で上位8人・各国2人までが種目別に残れるのは今と同じですが、ソウルまでは持ち点制度で、この団体規定・自由の合計の半分を持ち点として種目別に残り、その点と種目別自由の点を合計していました。森末慎二は団体で規定・自由とも鉄棒で満点を出し、10点を持ち点として種目別に臨みました。しかし種目別決勝では、降り技に3回転宙返りをやらなかった。2回転のスワンダブルで降りました。(なお、これは今ならC難度のため減点されて10点にはなりません)しかし、森末慎二は『この大会は難度より着地だ。それなら失敗の可能性が高い3回転より、より確実なスワンダブルで着地を決めて満点を出さないと金メダルはとれない』と、前の晩に決心したようです。
 確かコマネチがモントリオールで段違い平行棒でオール10点優勝したかと思っていますが(つまり団体の自由・規定が満点で、種目別も満点)、男子では森末慎二が初めてでした。なお今はこの制度は改定されて、団体自由と規定の持ち点で上位8人(各国2人まで)が種目別自由に進出することは同じですが、持ち点制度がなくなり種目別の得点だけで順位が決まります。また、今の規則では満点が9.00点になって、それに加点をプラスする制度になってるので、ロスのように満点満点また満点にはなりません。
彼の演技構成を見てると、開脚トカチェフ2回連続(池谷幸雄がやっていました)。トカチェフそのものはC難度、その連続なのでこれでD難度。片手車輪からでE難度がとれますが、あとは放れ技はマルケロフで、これは確かC難度。それからスワンダブルが降り技ならばC難度なんで、今はEを2つ入れないと高得点が出ないので、完璧にやっても9点くらいでしょうね(あ、3回転宙返りを入れないとしてです)10年たったら、残念ながら森末慎二さんの技は高校生でもできる技になってしまったのが、体操の怖いところです。

第13回 具志堅幸司選手の金メダル、の巻

 具志堅幸司、1984年ロス五輪個人総合金メダル。
 あのころのルールは、団体規定と自由を持ち点として、その合計の2分の1に個人総合(自由演技)を加算するやり方でした(今は団体総合での点はあくまで個人総合への進出者の順位決定だけで、後は、個人総合は自由演技6種目の合計だけで決めます)。

 旧ソ連と東側諸国が参加しないので、おそらく団体も個人も中国対日本になるだろうと思うところですがしかし。ここにおもわぬ敵が・・・。観客でした。アメリカの観客たちは熱狂的な声援を送り、そして観客の声援で点が左右された面があるのです。しかも審判席には東側の経験豊かな審判がいない。具志堅幸司にしても気がついたようです。『この審判たちは一流の演技も二流の演技もはっきり解らない。自分たちが目指す、美しい体操をしてもアピールがなければ全然点があがらないじゃないか・・・』と。

 簡単な技でも着地を決め,ガッツポーズをすれば10点、10点、また10点。

 これは前に森末慎二の事で書いたのですが、ともかく森末慎二にしても難しい3回転宙返りを降り技にもってくるより、簡単なスワンダブルで着地を確実に決めたほうが点が高くなり、また最後にいかにも成功したっ!というガッツポーズと笑顔さえいれればいいんだと思ったということです。
 繊細な、基本を重視する体操の日本はたとえ技がきれいでもそのアピールが足らず、団体でもアメリカ、中国に抜かれ3位。絶対絶命でした。おまけにエース具志堅は団体自由の最終種目であん馬にしりもちをつく大失敗で、これで個人総合への進出者として持ち点では5位に後退。上にビドマー(アメリカ)や李寧などがいます。
 しかし個人総合、ここで信じられないような、まったくノーミスの演技で具志堅幸司は脅威の逆転劇を演じます。持ち点ではビドマーとの差が0.175でした。まずあん馬を無難に9.90でこなし、2種目めのつり輪も9.95できちんと決め、3種目めの跳馬で10点。ここで彼は2人抜いて、個人総合3位にあがっていました。1位ビドマーは鉄棒10点、床9.80、あん馬9.90で、具志堅は差を0.025まで縮めました。合計3種目めまでで、具志堅幸司98.875。
 ここでおもわぬ、あるいは具志堅幸司に対しては幸運なアクシデントがありました。場内電光掲示板が故障し、3種目めが終わってから、観客にだれが1位か解らなくなったのですね。もしここでビドマー、李寧、具志堅幸司の採点が観客に解ったら、激しくこの2人を追ってる具志堅幸司に対し観客は(アメリカのビドマーひいき)絶対にブーイングなどで点を落とすように言い、ビドマーの演技後は大拍手で審判団に10点を出せとコールするでしょう。この電光掲示板が最後まで故障してくれたお陰で、観客は具志堅がまさか5種目めでこの2人の上位に来ると知らないままだったから、ブーイングもなく点も左右されませんでした。
 平行棒では、いまだ難度Eのオリジナル技『グシケン』を入れて9.90。そして5種目め鉄棒で9.95。ここでビドマー、李寧を抜いてトップ。最終で具志堅幸司は床。ビドマーは平行棒でした。ここで具志堅幸司が1位で、2位ビドマーとの差がわすか0.025。そして先に演技したのが具志堅幸司で、9.90。ここでビドマーは9.925以上で首位に並び9.95で逆転だったのですが、平行棒で着地一歩動いてビドマーは9.90。そこで具志堅の優勝が確定しました。その差わずか0.025。もしビドマーが9.95だったら。もし具志堅幸司が9.85だったら。この順位は反対だったのです。
 しかしこのとき電光掲示板が表示されてたら、観客のアピールで点が動くロス五輪体操会場ではこうはいかなかったでしょう。
最初に知ったのは,電光掲示板でなくてコーチの声だったといいます。観客がビドマー2位を知ったのも、アナウンサーの声からだったといいます。

 こうして現時点で最後の、日本人個人総合王者はまもなく引退して、母校日体大の講師として教えています。具志堅幸司の趣味は演歌を聴きに行くことでした。その演歌歌手がいかに観客の心をつかむかを実感として覚え、それを体操に生かしたということです。今見ても、彼の体操は『美しい』(加藤沢男さんとか西川大輔がもっているような手足の『美しさと厳しさ』)ではないのです。遠藤幸雄、田中光のような『かみそり』でも、笠松茂、畠田好章のような『雄大さ』でも表現不可能です。つまり「魅せる」体操をしていました。彼の演技には音楽があるようでした。ぽん、ぽぽーん、ぽん・・・。ああいう、演技にリズム、めりはりのある体操選手はその後出ていません。体操そのものが音楽になってるような。もちろん脚力もあってもそれだけでない。演技が観客と一体になれる、すごい選手だったと思います。とにかく観客を引きつけて魅了する体操が出来る希有な選手でした。

第12回 満点続出のロス五輪、の巻

 1984年ロス五輪。この大会は、アメリカらがボイコットした1980年モスクワ大会に対し、今度は東側諸国がボイコットするという、後味の悪いものでした。そして、なんとなくいやだったのがロスでの採点です。地味でも技術のいる技よりも、派手で着地を決めたら10点が連発した大会。いくら10点が出たんだろう。
 注:確か21個だったと思います。ロス大会の頃、日本では「軽薄短小」といった風潮があり、懐かしい・・・当時の新聞には「満点もケーハク時代?ロス五輪体操」という見出しが載りました。

 ある選手いわく『観客の拍手とガッツポーズで10点が出るんだろ』と某国を評して言っていました。具志堅選手が大逆転優勝したし、森末選手が鉄棒のパーフェクト優勝したけど、何か見てても『なんでこれで10点?』でした。男子も女子も。だから具志堅選手も森末選手も『難度が低くても着地が決まればそっちのほうが点がいいんだから』と難度を少し落として試合したそうです。
 森末選手もおり方は抱え込み3回宙でなくて、スワンダブルのひねりなしで今で言うC難度ですし、あの演技構成なら、森末選手が『いくら放れ技をいれても今なら9点が出るかでないかでしょう』という難度の低い技の構成で臨んで着地を決め、満点をとったということです。
 たとえばあん馬でも例のマジャール移動(これはむずかしいけど地味です。だから西川選手がこれを本当にきれいにこなしたあの4年くらい前は絶賛されていました)よりも、派手だけど難度が低い開脚旋回ばかりやっててあん馬の本来のおもしろさがなかったし、平行棒も地味な技より観客にアピールする技のほうが点がよかったし(片手倒立などは)鉄棒も放れ技はすごかったです。
 あのゲイロードを見たときは『なんだ、これは』だったけど、降り技とか、普通の後方車輪や車輪でのひねりなど、地味だけど難度が高い技をあまりしなくて簡単に10点だったんで不思議でした。

 この年に中国の体操がベールを脱いで、世界に中国をアピールするんですね。あの時の中国にはいい選手がいましたね。
 李寧(すごい腕力の選手で、あん馬つり輪で金)
 童非(森末との鉄棒での金メダル争い)
 楼雲(ものすごく脚力のある選手で床の銀、跳馬が金)

とにかく筋肉全身って感じで、ちょっと日本とは違うなって思います。アメリカはコナー、ゲイロードなどなど、いつのまにあんなに強くなったの?でしたが。しかし・・・私は旧ソ連の(または昔の日本の)線のうつくしい体操がいいなあと、思った次第です。

第11回 ユルチェンコ選手と跳馬の革命、の巻

 1980年のモスクワ不参加から1984年ロスまでの4年は、実はいろいろ体操界にも革命が起こっていました。やはり日本体操は男女とも、モスクワ五輪不参加によってものすごく遅れを取る結果になったのは事実です。モスクワのことは今、手元に資料がなく、またわかり次第かきますがモスクワではもう、大人になったコマネチはその背の伸びゆえに優勝出来なかったと言われたくらいです。男子は、もうあん馬のマジャール移動やトーマス旋回は常識となってるし、鉄棒でコバチ、トカチェフなど大きな放れ技がどんどん開発されました。
 しかし何といってもこのころ大革命が女子跳馬に起こりました。
 ロンダードといわれる踏切方法を、ソ連のユルチェンコ(1983年世界選手権で活躍)が発表して、たちまち女子跳馬の主流になったのです。これは、つまり今ほとんどの女子が行う、後ろ向きの姿勢で跳馬に着手するものです。ユルチェンコはロイター板の前で側方倒立回転して、ロイター板で後ろ向きに飛び上がります。そして後ろ向きで跳馬に着手しました。
 長所は2つあります。前方系飛び方と違って、跳馬の上に着手したときに着地面の床を確認できること(床でブリッジをやったら、頭の向こうが見えますね)。ですから前方系より着地が確実になること。それから、飛ぶときの力が増します。これによって、それまで前方系だった女子跳馬にもひねりや宙返りがより多彩に応用できるようになり、1年もしないうちに体操をしてるほとんどの女子がこれで飛ぶようになり、後ろ方向への回転が主流になりました。

 男子は跳馬が長く(縦長)飛ぶ距離を採点されるために、ロンダートは旧ソ連系の選手が使うくらいで、どちらかというと跳馬の横に横向き、つまり縦長の跳馬に、ロイター板を飛んだあと体をひねって横向きに入り、跳馬の横に平行に手をつきます。これはミュンヘン五輪から主流になっていますが(ツカハラとびですね)、やはり男子のこのころの革命はキューバのローチェ選手が使った3回転前方宙返りでしょう。これには『ローチェ』と名がついています。
 1980年モスクワ五輪の不参加は、そこで行われた技の革命から考えると、やはり大きな遅れをとった原因のひとつでした。そして、1981年から世界に登場した中国(これも国策としてステートアマを育成していますが)は登場するやいなや、日本をはるかにこえ、ソ連をおびやかすまでになりました。
 この中国の復帰も、大きな時代の流れと言えましょう。