第10回 シャポシニコワ選手と段違い平行棒、の巻
1976年のコマネチの登場から女子はどんどん技中心、低年齢化、そして背の低い選手が有利な時代に突入しました。で、今回は1978年、つまりモスクワ五輪以前のことを書いてみます。
「段違い平行棒の革命」
これは1978年の世界選手権で3位になった旧ソ連のシャポシニコワがもたらしました。
女子段違い平行棒は2本の高さが違うバーを用いて、最低3回両方のバーを行き来する競技でしたが、男子と違って車輪が不可能でした(というのも、高いバーで大車輪をすると低いバーに足があたるからです)。ところが、大車輪を高いバーで行いながら途中で腰をおりまげ、低いバーを通るところで低いバーをよけるという技術を入れ、女子でも大車輪が可能になり、大車輪からふりに勢いをつけて放れ技を行うことが出来るようになりました。
シャポシニコワの革命から、女子でも男子なみのバーをはなす放れ技を可能にして、女子もそのころからイエガー宙返りやギンガー宙返り、はたまたトカチェフなどの可能性が強くなりました。これが決定的になったのもやはり1980年モスクワ五輪前後です。
同時に、低年齢化とともに低身長の選手が活躍しはじめました。背が低いと足が短いから車輪で腰をおらなくてもいいというわけです。その一例では1991年インデイアナポリス世界選手権で優勝した北朝鮮のキム・ガンスクです。身長が140ないので腰をおらなくても大車輪ができて、男子顔負けのゲイロード→シャオの連続離れ技を行いました。
背が小さいと大車輪がしやすい、そのため背が低い選手が有利になってきたことも事実ですし、後にコマネチがモントリオールでオール10点だったあの段違い平行棒で落下したのも、10センチ身長が伸びたことが関係するかもしれません。
しかし160近い選手が優雅に、高い棒で腰を曲げながら大車輪をするのもきれいだし、女子ならではの魅力があります。ただ勢いが、腰をまげない身長の低い選手に比べると不利な面があるとはいえ。
第9回 ソルダン・マジャール選手とあん馬の革命、の巻
実はモントリオール五輪で女子のコマネチのほかに、男子の革命として書いてみたい選手がいます。モントリオール五輪には、ソルダン・マジャールというハンガリーの選手がいました。
今でもマジャール旋回,マジャール移動といわれる言葉がありますがあん馬の神様でした。モントリオールとモスクワの2連覇でした。腕がものすごく長い選手でしたが、彼がモントリオールでやったことは革命だったんですね。
今まではあん馬は横に使って、だれも縦には使っていませんでした。が、マジャールはこれを縦に旋回しながら移動するという、つまりあん馬を縦に使うという革命をやったんです。体の向きを少しずつ変えて端から端に移動するという縦移動です。今もこのマジャール移動は最高難度に入っています。それまではあん馬はあん馬に対して平行にしか使われませんでしたからマジャールのあん馬は可能性を膨らませたことになります。あん馬の革命といえるでしょう。
あん馬は日本ではいちばん苦手で難しいとされてたのです。遠藤幸雄もこれで失敗したし、後の具志堅幸司もこれで個人総合を危なくしています。しかし後に書きますが1988年ソウル五輪は日本の最終種目があん馬でした(団体)。日本は苦手なこの種目を、下手したら5位に終わるところで山田9.75、池谷9.80、佐藤9.90、小西9.90、そして水島10点、西川10点で奇跡の逆転銅メダルをとりました。それから苦手意識がなくなったようですね、日本のあん馬も。
そして1994年アジア大会で畠田君は種目別で金を取り、いつのまにか『日本が苦手なあん馬』は得意種目になったようです。あれもソウルからかな?
第8回 ナディア・コマネチ選手、の巻
モントリオール五輪、女子団体総合はもちろんソ連でしたが、個人総合はルーマニアの14歳の少女、ナディア・コマネチ。モントリオールの奇跡といわれ、女子体操の流れを完全に変えてしまった革命少女コマネチ。彼女はこの大会で7回の10点満点を出し、女子体操は完全に優雅さから技になってしまいました。
『またまた10点っ』(はやりました、このアナウンス)。実は今、映像を見ているのですが、本当に今見てもこれが20年も昔なのかと思うくらい、正確無比な演技なんですね。今は技が主流になっているため、彼女の演技では20年前に開発された技の分だけ、今では満点には遠い構成とはいえ(最近はE難度が入っていないと満点がとれません)、基本姿勢の正確さ(あえて美しさとは言わない。正確さ。そうですね。まるでマシンです)には、今更ながら脱帽です。今でもこれだけの演技が出来る選手はいません。あの時の微動だにしないコマネチ、姿勢欠点がまったくない(本当にまったく「ない」)コマネチ、姿勢とか基本動作つまり倒立姿勢、平均台の上での前転やバック転、床のタンブリング(今はもちろんこれにひねりとかE難度を加えないといけませんが)の正確さ。それから、段違いの車輪でまったく、脚のつま先まで全然乱れがない演技。これは、奇跡です。今、一流の選手が一応同じ演技はできますが、同じ構成をしても、あのように正確無比な演技が出来る選手は、今のところはっきりいってあのポドコパエワくらいでしょうか。
もちろん、あれから女子体操は少女の技の応酬の時代になってしまって、ふくよかであでやかな女性美を好む女子体操ファンには寂しい時代になってしまうのですが、彼女(コマネチ)がやはり天才であることは間違いないと思うのです。かつて、Numberという雑誌で体操の革命コマネチの記事がありました。天才が生み出した革命はコマネチ以外にぱっと名前が上がりません。小さい革命なら色々ありますが、体操の主流を変えてしまったのは天才少女コマネチでしょう。
ただ、モントリオール五輪では床でコマネチと金をわけあい、跳馬で優勝してコマネチの全種目制覇を阻んだ、あのふくよかな色つぽい(笑)、個人総合2位のネリー・キムも忘れがたい選手です。少女のコマネチに対し大人の演技を見せて、かつ脚力がすごく強く、混血のためか容姿も東洋系なんで、あのころ人気がありました。
コマネチの話『白い舞』という本があります。もう絶版かも知れませんが、図書館で借りました。東側(もう死語ですが)体操選手の裏側の内実を書いててなかなかおもしろかったです。
コマネチは1980年のモスクワ五輪後に引退したものの、結局ルーマニアを脱出します。つまりあの当時政権を握ってたチャウシェスクの次男の愛人を強要されて結局逃げざるを得なかったこと。それから一時、モントリオールから以降すごく太ったり不振になったんですが、これも国の政策で、コマネチを外貨稼ぎの親善大使としていろいろな国に行かせたこと(国の政策)のための練習不足だったこととか。それから今アメリカのコーチをしてる当時彼女の養成時代のコーチだったベラ・カロリーさんが亡命して、心の支えを大切な思春期に失ったこと。また、彼女は金メダルをとったことで『特権階級』にされて、家族の家や食料などは、14歳の彼女の金メダルの報酬で与えられたこと・・・色々と、彼女の孤独が浮き彫りにされていました。本当にただ体操だけが大好きな少女の運命を、何か、国が全部変えたような気がします。
第7回 モントリオール五輪の奇跡、の巻
1976年モントリオール五輪、日本男子体操団体優勝。
個人総合、ニコライ・アンドリアノフ(ソ連)。
1988年ソウル五輪での団体、そして1995年鯖江世界選手権での団体。なぜかいつでも奇跡が起こり、そのたび救われるのが日本の男子体操ですが、これが奇跡という文字で表すにはあまりにも平易な気持ちです。
1976年、笠松茂、加藤沢男、監物永三、藤本俊、塚原光男、そして梶山広司(今は監督さんとして、怖い顔でコーチ席に座っている人ばっかりですが)の6人に、補欠の五十嵐久人で行ったモントリオール五輪。なんとか団体金メダルを死守したいのですが、まずはアクシデント、エースの笠松茂の急性虫垂炎から始まりました。
で、6人で演技して、まずは日本の必勝パターン・規定で得点を稼ぎ、自由でその点差を保って逃げ切る・・・に持ち込みたいのですが、(旧)ソ連はなんせ、アンドリアノフを中心にジュニア時代から国ぐるみで育成された選手が育って、強くなっていました。そして逆に規定で0.50の差がついてしまったのです。こうしてソ連にリードされたまま、1日目が終わりました。
団体自由演技、ここでもアクシデントが起こりました。藤本が、床でヒザを痛めたのです。医務室で痛み止めの注射を打ってもらってと思ったら、今度は旧ソ連の陰謀で(笑)、藤本は軟禁状態です。
笠松はいない、藤本はいないの残り5人になって、さあ大ピンチでした。というのは、団体は6人が演技して上位5人の点数をとっていきます。ところが、藤本がいないので監物、加藤、塚原、梶山、五十嵐の点がそのまま団体の得点になる。つまり1人でもミスをしたら即その点が響くということです。
もう絶対ピンチの中、奇跡は起こりました。とにかく5人が自分の力以上の力を出せたのです。放送に塚原の着地が出たけど、とにかく着地が吸い込まれそうなくらいによく決まる。加藤の平行棒(やはり西川大輔に似てます)は美しいし、しかも着地は奇跡のように決まる。最後は鉄棒。ここでまた奇跡が起こりました。トップバッターの梶山がほぼ完璧な演技で高得点。トップがいいと後は得点が出やすいのですが、それにしても1人のミス、1人の落下も許されないあの状況で選手をささえたものは何だったのでしょうか。次の五十嵐、加藤、監物と着地が吸い込まれるように決まる中、最後が鉄棒のエース、塚原。彼はここで月面宙返りにひねりを加えた新月面を決めます。得点9.90。
最終的に日本576.85、ソ連576.45で日本が優勝。1人でもミスをしていたらこういう奇跡は起こりませんでした。その差わずか0.40です。
個人総合はアンドリアノフにゆずったものの、モントリオールの奇跡はその後『何があっても努力してる限り、何かが起こる』という自信につながっていきます。加藤さんは筑波大、監物さんし日体大、梶山さんは日大、五十嵐さんは新潟大で、そして笠松さんは東海TVレッツ体操クラブ、塚原さんは朝日生命体操クラブでそれぞれ後継者を育てています。こういう苦しみをともにした仲間が、今指導者として中心にいるからこそ、男子日本体操はなんとかまとまっているのかもしれません(しかし、その『奇跡』が鯖江で途絶えてしまったのが残念です)。
これが結局、五輪の最後の炎でした。これから日本はジュニア育成を怠ったツケが回り、逆に順調にジュニアを育成したソ連が、体操の王座を奪い返す時代となります。そして次の1980年モスクワ五輪、日本はソ連のアフガニスタン侵略に反対してボイコットしたアメリカにならい、不参加でした。そのころピークを迎えた、特に梶山広司などは本当になんとも言えない気持ちだったでしょう。
第6回 オルガ・コルブト選手と女子体操の変革、の巻
1972年ミュンヘン五輪女子。団体はソ連でしたが、個人総合は優雅なツリシチェワ(ソ連)か技のコルブトかと言われていました。そして結局個人総合はリュドミラ・ツリシチェワとなります。優雅、気品、そしてあでやかな女性でした。
そしてオルガ・コルブト。1972年ミュンヘン五輪、女子体操、種目別床金メダル。
ここらへんになると、私の思春期の思い出と重なり、懐かしくなってきます。この年の冬の冬季札幌五輪のフィギュアのジャネット・リン。さらに夏季ミュンヘン五輪(秋でしたが)のオルガ・コルブトなどは一種のアイドルでした。アイドルは失敗するからアイドルになるのかもしれません。
彼女は148cm、38kg。彼女から女子の体操は小さな選手が技で勝負という時代になって、最終的にその4年後のモントリオールでコマネチという14歳の天才によって一気に革命が起こったといえます。ミュンヘンの前の4年前のメキシコでは、チャフラフスカ、クチンスカヤという女性らしい、ふっくらとした体の女子体操が華でした。しかし、ミュンヘンで個人総合のツリシチェワ(ソ連)、跳馬優勝のヤンツ(ドイツ)などまだあでやかなそして女性らしい体型と演技が主流だった中で、この17歳のガリガリの、そしてちっちゃな少女コルブトは、その小さな体を活かし次々と技を見せます。
しかしそれだけではヒロインとはならなかったでしょう。彼女をヒロインにしたのも「失敗」でした。
個人総合争いの日、彼女は2種目めまでトップでした。しかし一番得意といっていい、段違い平行棒で致命的なミスを何度もくり返します。落下しなかったとはいえ、スタートでいきなり足が床について演技中断。途中でコルブト宙返り(上棒の上からバック転をして、そのまま上棒をつかむ)を見せたものの、またも動き中断。それも、2回も。最後はオリジナルのコルブト降りでしめくくったものの、演技が終わって涙。そして得点7.500でまた涙。なきじゃくるコルブトは、いっぺんにミュンヘンの人々の心をとらえました。
結局個人総合争いは同僚、ソ連のツリシチェワに渡したものの、翌日の種目別ではつらつとした可憐な演技で観客を魅了。コミカルでしかも明るく舞った床運動で9.900を出して金メダル。観客は大拍手を送り、彼女は一躍ミュンヘンのヒロインとなりました。
そして、それから女子体操は大きく変革します。小さい少女の技中心の演技に。彼女はミュンヘンでも平均台の「コルブト」と呼ばれるオリジナル技(後宙腕支持開脚降り)を出したり。これはいまだに女子ルールブックでは難度Bで載っています。今も大勢の女子がこれをします。技を見たら、ああ、あれかとすぐに解ります。また、平均台でその場抱え込み前方宙返り両足着地とか。これもいまだに難度Dで、大勢の選手がしています。4分の1世紀たってなお難度Dなのはすごいことです。
さらに、段違い平行棒の降り技、コルブト降りは基礎的な折り方として規定演技などに使われますし、これにひねりを加えた降り方はたくさんの選手がしています。彼女のもって生まれたセンス、そして体が小さいゆえに色々な技が可能になる・・・そして、一挙にモントリオールでコマネチら10代前半から17歳くらいまでの「ヤングエイジ」に主流が変わっていくわけです。
モントリオールでも彼女、コルブトは出ていました。しかし、すでに21歳になってまだ少女体型を保っていた彼女は、もう「しわ」すらよっていました。平均台でやっとメダルがとれたくらい。あの時の主流はもっぱらコマネチに移っていました。もっとも、モントリオールでの競技終了後、カナダでしっかりウェディングドレスを購入。そして結婚して引退というしゃれた花道を飾ります。色々な技を完成させたコルブト。彼女こそが女子体操革命の先駆者であり、それを完成させたのがコマネチだったといえます。
しかし、ヒロインは必ず段違い平行棒で失敗する・・・。そしてそのために個人総合優勝を逃すが、それで人気を急上昇させる・・・なんか、法則がありそうですね。あのメキシコの美少女クチンスカヤも段違いで落下。4年後のコルブトも段違いで大ミス。さらに8年後のモスクワでコマネチも、大得意の段違いで落下。その4年後のロスでもサボー(ルーマニア)は段違いの着地一歩後ずさりでレットン(アメリカ)に逆転される・・・という具合に。