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体操の歴史(その1)

第5回 塚原光男選手とムーンサルト、の巻

 1972年、ミュンヘン五輪。この1972年が日本男子体操の全盛期でした。
 (ミュンヘンでは団体金、さらに個人総合の1−3位も加藤、中山、監物と日本選手が独占)
 加藤沢男のことは前回に書いたので、今回はミュンヘンで鉄棒と跳馬に革命をもたらした塚原光男について書いてみます。
 塚原光男。ミュンヘンおよびモントリオール五輪・鉄棒金メダル。ご存じムーンサルトの生みの親です。彼はこの鉄棒の降り技の月面宙返りを、トランポリンからヒントを得、ミュンヘン五輪で完成させました(これは実はリアルタイムで見てます)。
 ミュンヘン五輪、彼がムーンサルトで降りた瞬間、数秒確かに沈黙がありました。そして割れるような歓声。ハーフインハーフと言いますが、宇宙遊泳を思わせる技は月の上の遊泳のようなもので、月面宙返り(ムーンサルト)と呼ばれています。私もこれを見たときは、なんだこれは、と思った記憶があります。従来の体操は、縦だけの(1回転宙返り)動きの技もしくは横だけの(ひねり)動きの技だったのが、この時9.90を出した降り技によって、見事に革命が起こったのです。ひとつの鉄棒の降り技の中にひねりと宙返りを行う。この木の葉が落ちるような大技で、彼はまずミュンヘン五輪の鉄棒金メダルをとりました。
 そして4年後のモントリオール。塚原は従来の降り技のムーンサルトにさらにもう1回ひねりを加え、2回ひねりにした新ムーンサルトを引っ下げて向かいました。伝説のあの「たった5人の団体自由」で最後の種目鉄棒、その最終演技者が塚原でした。ここで落ちるとソ連に逆転される。しかしこの土壇場で、塚原は新ムーンサルトを使いました。成功、9.90。これで塚原は団体金に貢献したばかりでなく、ひいては自分の鉄棒連覇を遂げました。
 彼の業績はまだあります。このムーンサルトはその後応用され、あらゆる種目に使われました。まず男女の床。男子つり輪、平行棒の降り技。女子段違い平行棒の降り技(森尾選手の完成から、これは一時モリオと呼ばれます)。そして、さらにこのムーンサルトを伸身で行う伸身月面宙返り。伸身月面宙返りは男子鉄棒の降り技のE難度となっています。
 そして、もう一つ忘れてはいけないのは、塚原が跳馬でも、半ひねりから着手して宙返りを行う「ツカハラ跳び」を完成させたことです。それまで跳馬はあまり技が出ず、男子の種目から廃止の案も出ているくらいでした。しかし、まっすぐに跳馬に入っていくのではなく、半分体をひねって跳馬に平行に手をつく。この新しい革命は、跳馬に命を吹き返させたのです。ツカハラ跳び、そして同僚の笠松茂が完成させたカサマツ跳びは、今も跳馬の基本となり、それを伸身で行うもの、さらにひねりを加えるものが男子跳馬の主流となっています。

 塚原はこうやって新しい技を次々に完成させた後、引退。そして女子体操の低年齢からの強化のために朝日生命体操クラブのコーチとなって、奥様の(旧姓小田)千恵子さんとともに、やっきになって女子体操のレベルを引き上げました。塚原さんのやり方はその強化も革命であったので、女子体操協会と色々と軋轢はあったけど、やはりその業績はすばらしいものです。

 鉄棒だけなら、今見てもお父様のほうが上手い(笑)。塚原直也は、鉄棒が一番苦手らしいです。

第4回 加藤沢男選手、の巻

 今回は加藤沢男について書きます。いまだ私の体操選手ナンバー1は彼だと思っていますから。
 加藤沢男。1946年新潟生まれ。
 加藤沢男は、平行棒の倒立だけで、そして床運動で立てるだけで点がもらえるくらい基本姿勢のきちんとした選手で、小野喬や遠藤幸雄とはまた違った意味での日本のエースでした。つまり日本の繊細な体操は、求められるところ彼に集約してもいいと思います。
 メキシコ五輪の個人総合の時はケガに泣かされていましたが、最後の床で9.90を叩きだし、それまでトップのソ連のウォローニンを逆転して優勝。そして団体も金をとりました。
 4年後の1972年ミュンヘン五輪も、団体優勝に貢献したばかりか、個人総合ではなんといってもライバルでありチームメイトだった監物永三、中山彰規と争い、ついに二連覇を果たしています(この時期は日本体操の黄金時代で、個人総合は日本人同士で争いました)。
 最後に、1976年モントリオール五輪に30歳で出て、あの奇跡の団体金の一員となった後、引退。今は世界をかけめぐる国際審判員として、そして筑波大教授として教えています。

第3回 チャフラフスカとクチンスカヤ、の巻

 東京五輪、女子。団体優勝はソ連、このとき日本は3位までいったのですが、個人総合女子はチャフラフスカ(チェコスロバキア)。1964年東京五輪といえば、やはりベラ・チャフラフスカを書かないわけにはいきません。
ベラ・チャフラフスカ。言うまでもなく東京五輪・メキシコ五輪の女子体操の女王です。そして、彼女が最後の「牧歌的(笑)女性体操選手」になったんだろうなと、今思っています。彼女の引退後は、小さい選手の技合戦となり、それからだんだん若年化が進みましたから。
で、映像は東京五輪は映画、メキシコではリアルタイムで見ましたが、美しい・・・。ため息が出ました。平行棒上の白鳥のごとき華麗な姿勢。今こういう美しい、女の演技が出来る女性はちょっといません。東京五輪の恋人は間違いなくベラでした。
 ついでにここからメキシコ五輪とだぶりますが、ベラについて。
 メキシコ五輪の前年は不運でした。彼女の自叙伝を読んだのですが、1968年メキシコ五輪の前、それも直前の1ヶ月前に旧ソ連のチェコ侵略がおこり、彼女も安全のため森の中に籠もり木の枝で段違い平行棒の練習をしてたくらいで、ろくな練習もしないままメキシコに出ました。が・・・結果、メキシコ五輪では個人総合と種目別金メダル3つ、合計4つの金メダルを獲得しました。

 あのとき、チャフラフスカの全種目制覇を阻んだのが、(旧)ソ連のヒロイン、クチンスカヤです。
 ナタリア・クチンスカヤ。いまだこの言葉に胸をしめつけられる方もいるかもしれません。1968年メキシコ五輪女子体操個人3位、そして平均台で金メダル。チェフラフスカの完全制覇を阻んだのが、クチンスカヤの平均台でした。
 彼女の場合、非常に不利でした。このメキシコ五輪の直前にソ連がチェコ侵略。世論はソ連を非難しメキシコに行ったソ連選手団を待っていたのは観客のブーイングでした。体操女子個人総合、ナタリアが頑張って演技しても、床では失敗すると拍手が起こる。そしてライバルのベラに至っては、彼女が成功すると、床の得点9.600が、観客のブーイングで9.800に上げられるという始末。そして、ナタリアは得意の段違い平行棒で落下という痛恨のミスをおかし、個人総合優勝争いから脱落してしまいます。しかし、銅メダル(金はベラでした)の表彰台での屈託のない笑顔で、次第にファンを増やします(そのくらい可愛かった。今思っても、あの笑顔は史上最高の体操界の美少女です。コマネチなんか目じゃないくらい)。
 あれだけ非難され、失敗すると観客の拍手を受けてたソ連なのに、なんでこの美少女はこんなに明るく幸せに笑っていられるのだろうと。なんで、これだけ冷たい視線、苦しい戦いの場において、彼女は笑顔でいられるのだろう。しかも、究極の笑顔で。しかも・・・ああ、こういう時、美人は得だ。色白で透き通るような顔立ち。金髪。愛くるしい笑顔ときたら、世の男性を魅了しないわけはないのです。いまだに覚えているのは新聞がそのころからベラよりもナタリア、ナタリアと大騒ぎし始めたことです。日本の、メキシコへ行った記者も別の雑誌で『とにかく、一人の美少女に魅せられてしまった。その名はクチンスカヤ。彼女かせ出るたびに胸がキュンとなった』というくらいですから。
 こうして、絶世の美少女と言われたナタリアは、種目別でしだいに観客の大声援を受けることになり、彼女が登場すると、前のブーイングから期待に満ちた(というかあの可愛い笑顔が見たい)観客から拍手がもらえるようになります。そして、個人総合はもとより完全優勝をはかるベラにまったをかけたのがナタリアの夢を見るように愛らしい、平均台の金メダル。こうして全世界の記者を完全に魅了して、メキシコの恋人はチャスラフスカかクチンスカヤかと言われたくらいでした。東京・メキシコの連覇を果たしたベラにとっても、メキシコの方が感慨深い大会だったでしょう。

 しかしメキシコ五輪が終わり、マスコミがまだクチンスカヤ、クチンスカヤと騒いでいる間に、彼女は19歳で引退しました。女優に転向するとか言われたけど、結局は持病のバセドー氏病が出たと記憶しています。 一方のベラ・チャスラフスカもすぐに引退、結婚しました。現在はスロバキアと分離、さらに社会主義から脱退したチェコでナショナルコーチをしています。

第2回 遠藤幸雄選手と東京五輪、の巻

 1964年東京五輪、個人総合優勝。その遠藤幸雄選手について書いてみます。
 その遠藤幸雄:ローマ五輪団体金、東京五輪団体および個人総合、種目別平行棒金、メキシコ五輪団体金。遠藤さんは今も独特のアゴ(?)でわかります。
 このように団体に貢献した彼のピークは、幸いにも東京五輪でした。
小野選手の項で紹介した通り、この東京五輪までは小野喬さんがキャプテンとして一世代を築いたのですが、遠藤は小野を心から尊敬していました。そして、ローマでは小野の活躍を後輩として見、東京では自分が引っ張っていって、メキシコではキャプテンという、小野の後を追うように後継者となったのです。
 ピークの頃の東京五輪。彼の演技はカミソリだと言われていました。小野は本当にきちんとした体操のお手本のような演技をしますが、遠藤のはそれに輪をかけて、カミソリの刃のような「切れ」を持っていました。
 ところが、東京五輪、個人総合で思わぬ失敗。
 当時、個人総合は団体総合の規定と自由の得点で決まっていました。個人総合として単独では行わなかったのです。遠藤は規定、58.30でトップ。2位の鶴見修治は57.80、さらにリンスキー(ソ連)57.50と続いていました。2日目の自由演技。平行棒、床は9.75、鉄棒、つり輪は9.70、さらに跳馬は9.65と演技は冴えていました。ライバルとの差はますます広がり、楽々優勝できるかもしれない、だったのに、最後の種目があん馬(実は遠藤さん、あん馬が大の苦手だったのです)。それで結局規定自由あわせて12回目の演技でポカをやってしまいました。あん馬に尻もち。それも、2回。でも9.10。
 甘い!といってソ連チームの抗議が審判団に出され、別室で協議されたほどだったけれど、結局却下されて、東京五輪個人総合は『カミソリの遠藤』に輝きました。団体総合はローマでとっていましたがここでやっと日本から個人総合チャンピオン(五輪・世界選手権通じて)が出たわけです。
 なお、2位には鶴見修治、リンスキー(ソ連)、シャハリン(ソ連。ローマ大会小野が2位の時の優勝者)が同点で並びました。
しかし、具志堅幸司のロスでの失敗といい、NHK杯での西川大輔といい、どんな選手でもポカをやってしまうのが、あん馬の怖さといえます。選手は『あん馬が終わるとほっとする』と言います。精神的な動揺が一番出やすい種目なんですね。

 当時、遠藤の体操はカミソリと言われていましたが、今ビデオを見てもそのくらい、周りの空気を切るような感じです。(彼のシャープな動きは、今でいえば田中光にそっくりです)。遠藤さんは、その東京五輪の20年前に母を亡くし、父が事業で失敗して施設に預けられました。寂しい少年時代に、当時の先生が『体操でもやってみたら』と教えてくれたことがきっかけといいます。『あの家庭がなかったら、私は別の人生を歩んでいたでしょう』と遠藤さんは言っています。
 田中は遠藤の演技に似てるし、畠田のスケールの大きい演技は笠松茂に似ている。佐藤寿治の堅実な演技は小野喬に似てるし、西川大輔の線の美しい、繊細な演技は加藤沢男に似ています。具志堅幸司の脚力の強い、観客にアピールする演技は池谷幸雄に受け継がれた(こう考えたら、次々に『この選手、誰かに似てるぞ』と思わずにいられません・・・)。

 また、東京五輪といえば跳馬の金メダリスト、山下治広選手が挙げられます。ヤマシタ跳びといえば今では跳馬の跳び方としてはいちばん基本ですが、彼はそれを1962年に発表しています。そして2年後の1964年には誰も彼もヤマシタ跳びで跳ぶ時代になっていました。跳馬の種目別は、2回違う跳び方で行いますが、東京五輪の山下は1回目に元祖ヤマシタ跳び、2回目には初めてひねりを加えた新ヤマシタ跳びを発表しています。そして種目別金メダル。
 このあたりから、いよいよ日本体操の全盛期が始まるわけです。

第1回 小野 喬選手の巻

 戦後、日本の男子体操がオリンピックに初出場したのが、1952年ヘルシンキ大会でした。男子団体は5位。この時のメンバーは上迫忠夫、金子明友、竹本正男、鍋谷鉄巳、そして小野喬で、それ以降の体操日本の基礎を作ったのが彼らでした。
 この時小野喬は21歳。小野はこの1952年に全日本選手権の個人総合も初制覇しています。(1962年までに計7回優勝)
それから4年、1956年のメルボルン五輪では相原信行、河野昭、久保田正躬、竹本正男、塚脇伸作に小野というメンバーで、団体2位。小野は個人総合でも銀メダル、さらに鉄棒では有名な『ひねり飛び越し』で種目別金メダル。そのころ鉄棒では離れ技などはなかったのに、初めて離れ技を開発したのですね。
 その4年後、29歳でローマ五輪に出た小野には、個人総合金メダルの期待がかかっていました。しかし、そのころのルールは持ち点制で、団体の規定・自由の点が個人総合に加算される制度でした。で、小野にしてみれば出来るだけ技を出して個人の点を上げたいけれど、その技をやると危険がともなう。落下などしたら団体の成績に影響するというわけで(95年の鯖江世界選手権で、団体最後の鉄棒で前の二人が落下したため、田中光が伸身トカチェフ一回ひねりをやらなかったように)、技の難度を落としました。結果、持ち点が下がり、結局このときが一番ピークだったのに個人総合は小差の2位でした。
 しかし、1960年のこのローマ五輪、日本男子は念願の団体金メダルを取ります。小野喬は種目別鉄棒で前回に次ぐ金メダルを獲得。鬼に金棒、小野に鉄棒とはこのころから言われていました。

 その4年後、引退を決めて臨んだ東京五輪。彼は開会式で、選手宣誓の名誉を受けました。
真っ青な10月10日の国立競技場で選手宣誓をする33歳の小野。しかし実際は肩がぼろぼろになっていました。痛み止めをしながら後輩の演技を見る小野でしたが、この時の男子チーム(遠藤幸雄、鶴見修治、山下治広、早田卓次、三栗崇、小野喬。補欠は相羽好広)は団体総合の連小野は引退しました。しかし、日本体操の基礎を作った選手です。(ちなみに、この小野喬の夫人が60年ローマ、64年東京大会にも出場した小野清子元選手です)
 このころの小野の演技を見て成長したのが、後に日本体操の黄金時代を築いた笠松茂、塚原光男たちです。そして、彼らの栄誉を観たのが具志堅幸司、それが西川大輔・池谷幸雄につながり、現在に至るわけです。

 小野がすばらしいことを言っていました。
 ソ連の選手にあるのは芸術性だと。表現力だと。
 あのころでも、日本はそれがどうしても出来なかった。